昨日放置した妖王が朝から正当な抗議で回収しに来ました
翌朝。
城は――
本来なら、すでに平常運転に入っている時間だった。
……はず、だった。
だが。
城内に満ちる空気は、明らかにおかしい。
重い。
重すぎる。
侍女たちは廊下の端で固まり、
巡回の兵は視線を逸らし、
誰もが一つの事実を察していた。
――来た。
「……?」
レイラが違和感を感じつつ目を覚ました瞬間、
まず感じたのは、隣の気配だった。
――いる。
ちゃんと、テュエルがいる。
その事実に、わずかに安堵して、
体を起こした、その――瞬間。
――バァン!!!!
扉が、容赦なく叩き開けられた。
「――――起きておるな」
低く、怒気を孕んだ声。
否、
怒気どころではない。
完全に――
堪忍袋の緒が、綺麗に、音を立てて切れた声だった。
「……シャガル……?」
視界に入ったのは――
表情、無。
目、据わり切っている。
不機嫌MAXの妖王。
背後では、侍女たちが息を呑み、
微動だにせず硬直している。
テュエルは、反射的に立ち上がり、
半歩、レイラの前へ。
「……何の用ですか」
「用?」
シャガルは、静かに一歩踏み出す。
「決まっておろう」
さらに一歩。
「一日中」
「余を、完全に放置して」
また一歩。
「朝になっても」
「顔一つ、見せぬとはな」
声は落ち着いている。
――だからこそ、怖い。
「……シャガル」
「落ち着け……」
レイラが言うが、
「落ち着いておる」
即答。
「極めて冷静だ」
((嘘だな))
テュエルとレイラ、
心の中で完全に一致した。
シャガルは、ぴたりと足を止める。
「余はな」
指を四本立てる。
「昨日の昼」
「昨日の夕」
「昨日の夜」
指を折る。
「そして――今朝」
淡々と、事実を積み上げる。
「丸一日」
「完全に、放置された」
目を細め。
「……これは」
一拍。
「正当な抗議であり」
「当然の権利行使だ」
レイラ、嫌な予感しかしない。
「……な、何を言い出す……」
シャガルは、にやりと笑う。
「今日のレイラの一日は」
一拍置いて。
「――余が、もらう」
テュエルが、即座に反論する。
「却下です」
「却下は受け付けぬ」
即却下返し。
「昨日」
「余は、何も得ておらぬ」
「対して――」
ちらり、と寝台を見る。
「貴様は」
「隣に寝た」
テュエル、言葉に詰まる。
「……それは……」
「差し引きゼロになど、ならぬ」
理詰めで殴る妖王。
そして――
視線が、レイラに向く。
「支度をしろ」
「……え?」
「服を替えろ」
「髪を整えろ」
淡々と、だが有無を言わせぬ声音。
「余は――」
「五分、待つ」
レイラ、完全に硬直。
「ま、待て……!!」
「私は……!!」
「拒否権は」
「ない」
にっこり。
――怖い。
テュエルが一歩踏み出そうとした、その瞬間。
「猿」
名を呼ばれただけで、
体が止まる。
「今日一日だ」
「殺しはせぬ」
「攫うだけだ」
「……っ」
以前のような殺気は、ない。
だが――
圧が、重い。
レイラは、観念したように息を吐いた。
「……五分だな……」
「優しいだろう?」
にっこり。
妖王の笑顔だった。
――――
身支度を終えたレイラがシャガルに近づく
「待たせたな」
「きっかり五分だな……」
「よし」
「今日のレイラは」
低く、よく通る声。
「余がもらう」
有無を言わせぬ宣言だった。
「……え?」
振り返った瞬間、手首を掴まれる。
「ちょ、待て、シャガル……!」
「丸一日だ」
「昨日、余は何も得ておらん」
(いや、テュエルへの配慮はしてたじゃないか……!)
そんな抗議は、当然聞き入れられない。
次の瞬間――
足が、地面を離れた。
「なっ――!?」
「飛ぶな!!」
「歩けと言っただろう!!」
「人の前では、な」
当然のように言い返される。
「ここには誰もおらぬ」
正論で殴られた。
ぐ、と言葉に詰まる間に、景色が一気に流れていく。
――
風が頬を撫で、城が小さくなり、
やがて人の気配が完全に消えた高原に降り立った。
「……ほら」
シャガルは、あっさりとレイラを下ろす。
「歩けと言っただろう?」
「歩くぞ」
「……最初からそうしろ……」
だが――
歩き出した直後、指先が絡め取られた。
「……っ」
「離れるな」
「迷子になる」
「ならない!!」
即答したが、手は解かれない。
むしろ、自然な顔でそのまま。
肩が触れる距離。
指の温度。
(……意識するな……意識するな……)
そう思うほど、意識してしまう。
城下から少し離れた、小高い丘。
人の気配はなく、
風が草を撫でる音だけが、穏やかに流れている。
レイラは、少し落ち着こうと深呼吸をしていた。
(……なぜ私は……)
(今、こんなに……)
心臓が、うるさい。
その様子を横目で見て、
シャガルは満足げに腕を組んだ。
「……ここなら問題あるまい」
「?」
レイラが顔を上げる。
シャガルは、少しだけ胸を張って。
「安全は、完全に確保されておる」
にやり。
「――余が、いるからな」
ドヤ顔。
(この男……!!)
シャガルの指が、そっとレイラの手首に触れた。
掴む――というより、
逃げないように留める、程度の力。
それだけなのに。
「……っ!」
レイラの肩が跳ねる。
(な、なにを……)
(ただ触られただけで……!!)
心臓が、暴れる。
シャガルは、その反応を見て、ゆっくりと目を細めた。
「……ほう」
低く、愉しげな声。
「先日の話を聞いて」
「どう思った?」
「……な、何の話だ……」
視線が、自然と逸れる。
その一瞬を、シャガルは見逃さない。
「否定が、遅いな」
くつり、と喉を鳴らす。
「興味は、あったのだろう?」
「な、ない!!」
「断じてない!!」
即答。
だが、声が裏返る。
シャガルは、くつくつと笑った。
「否定が、早すぎる」
そして、ふっと声を落とす。
「……安心しろ」
指先の力は、変わらない。
「何かをする気はない」
「嫌がることは、一切せぬ」
一拍。
「ただ――」
ほんの少し、距離を詰める。
「“こういう場所もある”と」
「知るだけだ」
それだけ。
それだけなのに、
指先から伝わる体温が、妙に熱い。
「……っ」
レイラは、びくりと肩を震わせた。
(だ、だめだ……)
(近い……)
「顔が赤いぞ」
「うるさい……!!」
振り払おうとして、
――できない。
シャガルは、視線を落として、静かに言う。
「寝所でなくとも」
「想いが通じる場所は、ある」
「それを――」
「知っているか、知らぬかの違いだ」
さらに、一歩。
額が触れそうな距離。
「……心臓」
「ずいぶん、騒がしいな」
「〜〜〜〜っ!!」
「馬鹿者!!」
レイラは、思いきり胸を押す。
だが。
その反動で、体勢が崩れた。
「――っ!?」
草の感触が、背中に伝わる。
乱暴ではない。
だが、完全に――逃げ場がない。
シャガルは、片手でレイラの手首を押さえ、
もう片方の腕で、自分の体を支えている。
影が、覆いかぶさる。
「……昨日」
低く。
「一日」
「丸ごと、放置された」
視線が、外れない。
「余はな」
「随分と、我慢したぞ」
「ま、待て……!!」
「待たぬ」
即答。
「これは――」
「抗議の一環だ」
顎に、そっと指が添えられる。
「逃げるな」
顔が、戻される。
目が、合う。
「……余を、見ろ」
一拍。
「……昨日の分だ」
そして。
触れるだけの、短い口付け。
深くはない。
奪うようでもない。
ただ――
確かめるような、静かな口付け。
「……っ!!」
レイラの思考が、完全に止まる。
唇が離れた瞬間。
シャガルは、小さく息を吐いた。
「――よし」
「な、なにが……!!」
「返した」
にやりと笑う。
「これで、少しは気が済んだ」
レイラは、しばらく動けなかった。
(心臓が……)
(……死ぬ…)
シャガルは立ち上がり、手を差し出す。
「立て」
「倒れたままでは、格好がつかぬ」
レイラは、その手を見て――
一瞬、ためらってから、取った。
「……二度と……」
「するな……」
「それは、約束できぬ」
即答。
「今日一日だ」
「余は、存分に楽しむと決めておる」
レイラは、空を仰いだ。
(……昨日放置したの……)
(そんなに効いていたのか……)
シャガルは、満足そうに歩き出す。
「さあ」
「茶屋に行くぞ」
「……なぜだ……」
「落ち着くためだ」
ちらり、と振り返る。
「これ以上は――」
「お前が、先に倒れる」
レイラは、何も言い返せなかった。
心臓の音が、
まだ、うるさすぎたから。




