十年来の付き合いで結婚もしているのに、今さら恋に落ちました
魄喰との一件が終わってから、しばらく経っていた。
城は、いつもの日常を取り戻している。
張り詰めていた空気も、ようやく緩み、
傷も、痕も、少しずつ癒え始めていた。
――だからこそ。
(……そろそろ、だろう)
無理をさせた。
言葉を選ばせ、距離を守らせ、
気遣いという名の我慢を、ずっと強いてきた。
(褒美、というほどのものではないが……)
せめて、
礼の一つくらいは――
そう思っただけの、はずだった。
その廊下で。
「……テュエル」
呼び止めた、その瞬間。
(……?)
胸の奥が、
きゅ、と、妙に縮まる。
(……なぜ……)
ただ名前を呼んだだけだ。
それなのに、鼓動が一拍、早くなる。
(……落ち着け……)
(変な意味ではない……)
そう言い聞かせる前に――
呼び止められ、
彼はすぐに足を止めた。
「はい、レイラ様」
振り返ったその顔を見て、
レイラは、ほんの一瞬だけ、言葉に詰まる。
(……近い……)
(いや、前からこの距離だ……)
(何も……変わっていない……はずだ……)
なのに。
(……変なのは……私の方か……?)
理由の分からない違和感を、
胸の奥に押し込めたまま――
レイラは、改めて彼を見る。
いつも通りの声。
いつも通りの距離。
――なのに。
レイラは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
(……なんだ、この間)
今まで、こんなふうに言葉を選んだことなどなかったのに。
「……少し」
咳払いを一つ。
「出かけるぞ」
「……視察、でしょうか?」
反射的に返ってきた言葉に、
レイラは首を横に振る。
「違う」
即答だった。
「今日は……」
「…………二人だけだ」
沈黙。
ほんの一拍。
けれど、確かに――間が空いた。
「…………」
(まずい……)
(胸が苦しい……)
テュエルは、わずかに目を瞬かせる。
「……二人、だけ……ですか?」
「そ、そうだ」
なぜか胸を張る。
「公務でもない」
「任務でもない」
「城の外だ」
テュエルは一度、口を開きかけて、
閉じた。
そして、ゆっくりと息を整える。
「……承知しました」
穏やかな声。
だが――
(……なんでだ)
(心臓が、こんなにうるさい)
⸻
――出発
城門を抜けるまで、
二人はほとんど言葉を交わさなかった。
馬の背に揺られ、
前後に並ぶ形で乗っているだけ――
それは、いつもと同じはずなのに。
(……近い……)
背中越しに伝わる体温。
手綱を取る腕が、自然と彼女を囲む。
(……いつも通りだ……)
(何度も、こうしている……)
それなのに。
(……なぜだ……)
(今日は……)
馬が一歩進むたび、
鞍越しに伝わる揺れが、鼓動と重なる。
レイラは、視線を前に固定したまま、
知らぬふりをして息を整えた。
(……距離は……変わっていない……)
(変わっているのは……私だ……)
ちらりと、横――
ではなく、後ろを意識してしまう。
背後。
テュエルは、
手綱を引く力を、ほんのわずかに緩めていた。
馬の歩調が、自然と穏やかになる。
(……合わせている……?)
無意識だと分かっているのに、
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……テュエル」
「はい」
即答。
背後から返る声は、近い。
それだけで、
レイラはなぜか、前を向いたまま固まってしまった。
「……いや」
「なんでもない」
「……?」
不思議そうな気配が、背中越しに伝わる。
(……何をやっているんだ、私は……)
⸻
――城下の村
城下に出ると、
視線が一斉に集まった。
「……え?」
「今のって……」
「テュエル様と……姫様?」
(※陛下呼びを嫌う二人)
ひそひそとした声。
レイラは、ぴしっと背筋を伸ばす。
(……しまった)
(完全に目立っている)
だが、テュエルは一歩前に出て、
自然に、彼女の立ち位置を影から守った。
……癖だ。
(……護るな、と言ったのに……)
そう思うのに、
嫌じゃない。
むしろ――
(……落ち着く……)
「……何か、買いますか?」
テュエルが、少し控えめに尋ねる。
「……特に決めてはいない」
「……では、歩きましょうか」
「……そうだな」
完全に、
ノープランだった。
⸻
――ぎこちない時間
屋台の前で足を止める。
「……これは、何だ」
「菓子ですね」
「……甘いのか?」
「たぶん……」
「……たぶん?」
二人して沈黙。
そして同時に、
なぜか笑ってしまった。
「……変だな」
レイラが、ぽつりと零す。
「何が、でしょうか」
「……こんなふうに」
「二人で歩くだけで……」
言葉が、続かない。
テュエルは、少しだけ考えてから言った。
「……初めて、だからでは」
「……初めて?」
「はい」
穏やかに、しかし確かに。
「夫婦として」
「“何も目的のない外出”は」
その言葉が、
レイラの胸に、すとんと落ちた。
(……あぁ)
(そうか……)
「……そうだな」
レイラは、小さく息を吐く。
「……少し、緊張するな」
正直な言葉だった。
テュエルは、
ほんの一瞬だけ目を見開き――
そして、少しだけ照れたように微笑んだ。
「……俺も、です」
⸻
歩き出した、その時。
指先が、
ほんの一瞬――触れた。
「……っ」
二人同時に、びくっと肩が揺れる。
「……す、すみません」
「い、いや……」
同時に謝って、
また沈黙。
だが。
今度は、離れなかった。
レイラが、
そっと指を伸ばす。
テュエルも、
迷うように、それを受け止める。
ぎこちなく。
不器用に。
けれど、確かに――
手を繋いだ。
「……」
「……」
言葉はない。
だが、胸の鼓動だけが、
やけに大きく響いていた。
((……これは……))
((……逢瀬、だな……))
二人とも、同じことを考えているのに、
口には出せなかった。
初々しくて、
不器用で、
でも――
確かに、幸せな時間だった。
手を繋いだまま、数歩。
たったそれだけなのに、
レイラの鼓動は、耳の奥でうるさいほど鳴っていた。
(……近い……)
(手……手だ……!)
今さら何を、と思う自分と、
今さらだからこそ無理だ、という自分が、
脳内で取っ組み合いを始めている。
「…………」
限界だった。
レイラは、そっと――
本当にそっと、指先を引こうとする。
その瞬間。
ぎゅっ。
「……ダメです」
低く、しかし即座に。
「……っ!?」
引き止められた。
はっきりと。
逃げ道なしに。
レイラは、硬直する。
「……な、なぜだ……」
声が、若干裏返った。
テュエルは、
歩みを止めることなく、
けれど力は緩めずに答える。
「……せっかくなので」
一拍。
「もう少し、このままで」
(……もう少し……?)
(このまま……?)
脳内が、真っ白になる。
「……っ、テュ、テュエ――」
名を呼ぼうとして、
そこで初めて――気づいた。
(……顔が……近い……)
いつも見ているはずの横顔。
だが、今は違う。
柔らかな日差しに照らされて、
伏せた睫毛の影。
真剣なのに、どこか照れたような表情。
(……こんな顔、していたか……?)
胸が、どくん、と跳ねる。
(……まずい……)
(……意識したら……)
(……端正すぎないか……?)
(前から端正なのは知っていたが…)
「……レイラ様?」
名前を呼ばれて、
完全に、心臓が暴れ出す。
(胸が痛い……!!)
視線を逸らそうとしても、
手を離せない。
むしろ、テュエルの方が
ほんの少しだけ、指を絡めてくる。
「……っ」
「……?」
不思議そうな声。
(やめろ……)
(それ以上は……)
(死んでしまう……!!)
「……だ、大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込まれて、
レイラは、完全に限界だった。
「……テュエル……」
「はい」
即答。
「……少し、歩幅を……広げろ……」
「?」
「……距離を……取れ……」
「……?」
「畳半分程度でいい……」
「……はい?」
理解していない。
むしろ、
首を傾げるその仕草が致命的だった。
(……無自覚でこれは……)
(……反則だ……)
レイラは、
ぐっと唇を噛みしめる。
(……私は……)
(……今……)
(……意識して……)
――しまっている。
自覚した瞬間。
心臓が、
限界を超えた。
どくん、ではない。
**どんっ**だ。
次の瞬間、
顔が、ぼんっ、と熱を持つ。
(なっ……!?)
頭の中で、
何かが弾けた。
(む、無理……!!)
(近い……!!)
(これは……だめだ……!!)
――完全に、爆死。
テュエルはそんなこととは露知らず、
手を握ったまま、穏やかに言う。
「……今日は」
「こういう時間を、過ごす日ですよね」
レイラは、
返事ができなかった。
(……自覚させるな……)
(……優しくするな……)
(……このままだと……)
(……私が……おかしくなる……)
だが、手は――
結局、離せなかった。
人通りの少ない道に入ったところで、
レイラは、ついに足を止めた。
「……テュエル」
名を呼ぶ声が、いつもより低い。
テュエルは、すぐに振り返る。
「どうしましたか、レイラ様」
少し、迷ってから。
レイラは、胸元に手を当てた。
指先が、わずかに震えている。
「……どうしたらいい」
自分でも戸惑っているのが分かるのか、
言葉を探すように、視線が揺れた。
伏せがちになった睫毛。
ほんのり赤くなった頬。
「私は……」
一拍、息を整えて。
「……今」
「お前が、相手なのに」
言ってから、
しまった、というように唇を噛む。
「胸が……苦しい」
沈黙。
風が草を揺らす音だけが、
やけに鮮明に耳に届く。
テュエルは――
完全に、固まっていた。
(……胸が……苦しい……?)
(……相手が……)
(……俺で……?)
思考が、一拍遅れて追いつく。
目の前のレイラは、
助けを求めるような顔で、
それでも必死に平静を装っている。
――無自覚。
致命的に。
(………………)
喉が、鳴る。
(……殺す気か……)
胸を押さえて訴える声も、
困ったように揺れる視線も、
全部――反則だ。
(……そんな顔で……)
(……そんな言い方をして……)
感情が、
一気に胸の奥へ流れ込む。
(……これは……)
(……反則だろう……)
だが、テュエルは動けない。
動けば、
何かが壊れてしまうと、
本能が告げていた。
だからただ、
息を潜めるようにして、
レイラを見つめるしか、
できなかった。
その姿が――
あまりにも、可愛すぎたから。
「…………」
喉が鳴る。
「……それは……」
声が、少しだけ震えた。
「……恐らく」
真剣に。
だが、どこか必死に。
「……恋、というものかと……」
言った本人が、
一番ダメージを受けた。
(言った……)
(言ってしまった……)
レイラの顔が、一気に赤くなる。
「……っ」
「な、なぜ、そんなことを……」
「……今まで」
「…そうでなかったのなら」
テュエルは、一度だけ視線を逸らす。
「……今は」
「違う、…ということです」
――致命傷。
レイラは、何も言えなくなった。
(……私も……)
(……同じだ……)
二人の間に流れる空気が、
どうしようもなく甘くなりすぎて。
「……」
テュエルが、そっと提案する。
「……西へ、行きませんか」
レイラは、はっとする。
「……西の草原か」
「はい」
あそこは、
テュエルの核。
彼の原点で、思い出の場所。
「……少し」
「休めるかと……」
レイラは、小さく頷いた。
⸻
西の草原。
どこまでも続く緑の中で、
二人は並んで腰を下ろした。
風が心地よく、
張り詰めていたものが、
ゆっくりとほどけていく。
「……不思議だな」
レイラが、ぽつりと言う。
「今まで、何度も来た場所なのに」
「はい」
「……今日は」
「少し、違って見える」
テュエルは、答えず、
ただ隣に寄る。
肩が、そっと触れる。
レイラは、逃げなかった。
むしろ――
そのまま、体を預ける。
「……少しだけ」
「はい」
「……眠ってもいいか」
「……もちろんです」
草の上に横になり、
いつの間にか、
レイラはテュエルの腕を枕にしていた。
(……慣れているはずなのに……)
(……どうして、こんなに……)
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
テュエルは、
眠るレイラを見下ろしながら、
静かに思う。
(……困ったな……)
(……これでは……)
(……一生、離せなくなる……)
(……そもそも、離す気はないが……)
だが、その腕を緩めることは、
決してなかった。
西の草原は、
二人の呼吸だけを聞いていた。




