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妻を侮辱されたのでブチ切れました


シャガルは、暗闇の中に一人で立っていた。


「……闇に呑まれたか」


低く呟き、すぐに理解する。

ここは現実ではない。――魄喰の内側だ。


その認識を裏切るように、

ドン、と何かが叩きつけられる鈍い音が響いた。


続いて、


ぐちゃ……ぐちゃ……


耳を塞ぎたくなるような、生々しい音。


反射的に音のする方へ視線を向けた瞬間、

シャガルの呼吸が止まった。


茨木童子。

振り上げられた棍棒の下で――

レイラが、叩き潰されていた。


「ッッッ……!!!!!」


それは、かつて現実で起こり得た光景だった。

あの時、ほんの数秒でも間に合わなければ。

もし、レイラがあの場で命を落としていたら――

幾度となく想像してきた、最悪の結末。


「……ぐッ」


歯を食いしばり、意識を繋ぎ止める。

これは幻術だ。そう分かっている。

それでも、身体は拒絶反応を起こす。


シャガルは大鎌を振るい、

“幻であるはず”の茨木童子を引き裂いた。


はぁ……はぁ……


肩で息をし、冷や汗が頬を伝う。

あまりにも生々しい。

血の匂いも、骨の砕ける音も――

現実と何一つ変わらない。


「……幻術だ」


自分に言い聞かせるように、呟いた。


次の瞬間、世界が切り替わる。


執務室。

机に向かい、熱心に書類へ目を落とすレイラの後ろ姿。


気づけば、シャガルの手には花束があった。


無言のまま近づき、差し出す。


「……お前のために、摘んできた」


レイラが振り返る。


そして次の瞬間、

その花束を――平手で払い落とした。


パサッ、と軽い音。


床に散らばる花へ一度だけ視線を落とし、

再びレイラの表情を見る。


笑顔はない。

向けられているのは、露骨な嫌悪の眼差し。


そしてレイラは何事もなかったかのように机へ向き直り、

隣に控えていたテュエルへと顔を向けた。


そこには、

シャガルが一度も向けられたことのない――

満面の笑み。


「…………」


言葉が、出なかった。


再び、場面が切り替わる。


妖力の逆流。

制御を失い、異形の鬼へと変貌してしまった、あの日。


戻れない。

理性も、人の姿も。


鬼の姿のまま、

自分の手で――レイラを引き裂いていた。


正気を取り戻した時、

そこにあったのは、無惨に倒れ伏すレイラの亡骸。


「……レ……イラ……」


「余が……やったのか……?」


膝から力が抜け、

その場に崩れ落ちる。


もう、何が現実で、

何が幻なのか分からない。


また、世界が切り替わる。


忘れもしない、あの夜。


夢と現実の狭間で、

寝ぼけていた――そう、思っていた。


まだ避妊薬も存在しなかった頃。


気づいた時には、

すでにレイラを“犯していた”。


レイラは泣いていた。

嫌悪の表情で、シャガルを見て。


差し伸べた手は、強く払い除けられる。


拒絶。


「最低……」


「私のことを大切にしていると思っていたのに……」


「もう……二度と、私に関わるな……」


「妖界へ帰れ……」


背を向け、去っていくレイラ。


引き止めたかった。

だが、何を言えばいいのか分からず、

声すら出なかった。


胸に広がる、

これまで味わったことのない痛み。


それは――


孤独だった。


ーーーーーーー


一方、レイラもまた暗闇の中にいた。


……いや、立ってすらいない。


浮いていた。


意識は曖昧で、

現実感が薄れていく。


ついさっきまで、この腕に抱いていたはずのテュエルは、

もうどこにもいなかった。


まるで最初から存在していなかったかのように、

抱きしめていた腕は、ひどく冷たい。


何を、しなければならなかったのだろうか。


――いや。

別に、何もしなくてもいいのかもしれない。


暗闇の中で、レイラはふと思う。


……悪くない場所だ。


このままずっと、

ここにいてもいいのかもしれない――――。



――――――――

 


 ――暗闇だった。


上下も、奥行きも、温度すらない。

ただ、静かで――重い。


(……あぁ)


テュエルは、それだけで理解した。


(また、ここか)


心が折れかけた時。

何も考えたくなくなった時。

自分が“空っぽ”になる、この場所。


悪くない。

今の自分には、ちょうどいい。


そう思いかけて――

ふと、違和感が走った。


(…………)


息を止める。


耳を澄ます。

肌を張り詰める。


……ない。


ない。


ない。


レイラの気配が、どこにもない。


呼吸の音も。

微かな衣擦れも。

いつも、無意識に探してしまう――あの存在感が。


「……レイラ様?」


声が、闇に吸われる。


返事はない。


心臓が、強く脈打った。


(……おかしい)

(さっきまで…

 一緒にいたような気もする)


しかし、ここがどんな場所であれ、

どんなに自分が壊れていようと――


レイラだけは、感じられたはずだった。


「レイラ様……?」


次第に、焦りが輪郭を持つ。


「レイラ様!!」


テュエルは、闇の中を走り出した。

方向も分からないまま、ただ必死に。


「どこですか!!」

「レイラ様!!」


叫びながら、理解する。


――これは、”非常事態”だと。


恐怖でも、絶望でもない。

それよりも、もっと根源的なもの。


“守るべき存在が、ここにいない”


その事実が、テュエルの意識を急速に引き上げていく。


曖昧だった思考が、輪郭を取り戻す。

沈んでいた感覚が、覚醒していく。


その瞬間――

景色が、歪んだ。


闇が裂け、幻が映し出される。


そこにいたのは、レイラとシャガルだった。


近い。

近すぎる距離。


レイラの指が、シャガルの衣を掴み、

シャガルの腕が、当然のように彼女を抱き寄せている。


唇が、重なる。


絡み合う影。

熱を帯びた吐息。


「……レ、イラ様……」


胸が、ぎゅっと締め付けられる。


痛い。

確かに、痛かった。


幻の中のシャガルが、ゆっくりとこちらを見る。


「猿……貴様は」

「レイラの夫には、不釣り合いだ」


続いて、レイラが微笑む。


あまりにも、穏やかで――優しい表情で。


「テュエル……もう……あなたはいらない……」

「私は……シャガルと……生きていく……」


ズン、と。


胸の奥に、重い何かが落ちた。


一瞬、視界が暗転する。


――だが。


次の瞬間。


「……」


テュエルは、ゆっくりと顔を上げた。


「……ふざけんな」


低い声。


幻のシャガルが、わずかに眉をひそめる。


魄喰の意識が、ざわりと揺れた。


〈……?〉


「ふざけんな……?」


問い返すように、言葉を噛みしめ――


テュエルの感情が、爆ぜた。


「ふざけんなッ!!!!!!」


闇が、震える。


「レイラ様が!!!!」


声に、怒気が宿る。

それは嫉妬でも、妄執でもない。


断定だった。


「そんなこと言うわけねぇだろーが!!!!!!」


覇気が、空間を圧する。


魄喰の幻が、ひび割れる。


「……あの方は」

「自分のことなんて、いつも後回しだ」

「誰かのために傷つくことを、厭わない」

「優しいなんて言葉じゃ、足りねぇ……」


息を吐く。


「尊いんだ……」

「これ以上ないほどに」


それは願望ではない。

希望でも、縋りでもない。


確信だった。


「俺の……唯一の光だ」


テュエルは、真っ直ぐ幻を睨みつける。


「あの方を侮辱するなッッッ!!!!」


――その瞬間。


闇が、内側から破裂した。


光でも、炎でもない。

ただ、圧倒的な“意思”が空間を引き裂く。


魄喰の声が、初めて揺らぐ。


〈……あ……ありえない……〉

〈こいつは……抜け殻だったはずだ……〉


幻が、崩壊していく。


テュエルは、静かに立っていた。


折れていない。

揺らいでもいない。


ただ――


信じているだけだった。


それこそが、魄喰にとって最大の誤算。


一番、敵に回してはいけない。


精神が、

あまりにも強靭な男だった。

 

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