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最愛の護衛に首を噛まれました


シャガルは、いつも通り宮内の廊下を歩いていた。


目的地は資料室。

レイラが、まだそこにいる時間だ。


特別な警戒もない。

ただ、いつもの足取りで、いつものように。


――その時だった。


一瞬、

“何か”の気配が、背中を撫でた。


シャガルは反射的に足を止め、

その気配の先へと視線を走らせる。


……いた。


廊下の向こう。

柱の影から現れたのは――


「なんだ、猿。貴様か」


吐き捨てるように言う。


テュエルだった。

見慣れた姿。

見慣れた背丈。

見慣れた――はずの存在。


だが。


返事がない。


歩調も変えず、

こちらを見ることもなく、

ただ、真っ直ぐ前を見て歩いてくる。


「…なんだ?」


シャガルは、眉をひそめる。


「腹でも痛いのか――」


そう言いかけて。


その瞬間、

テュエルの顔を、はっきりと捉えた。


――手が、勝手に動いた。


腰に下げた短剣へ、

掴もうとするように、指が伸びる。


(……なんだ?)


心臓が、僅かに脈打つ。


(……猿……いや、ヤツ……だよな)


間違いない。

姿形は、確かにテュエルだ。


(……殺気、ではない)


敵意もない。

害意もない。

剥き出しの悪意も、感じない。


だが――


(……背中を、見せられない)


理由は、わからない。

理屈も、ない。


ただ、

そうしてはいけないと、

本能だけが告げていた。


テュエルは、何事もなかったかのように、

シャガルの横をすれ違い――


そのまま、廊下の奥へ消えていく。


「……なんだ……?」


残されたシャガルは、低く息を吐く。


「………嫌な、気配だな」


そう呟いた声だけが、

静かな廊下に、落ちた。


 ――

テュエル

「…………」


小さく、独り言が漏れた。


「勘が鋭いやつだな」


そう思った瞬間、

自分で、少しだけ引っかかる。


(……鋭い?)


誰のことを言ったのか、

なぜそう思ったのか。


考えようとして――やめた。


まあ、いいか。


それ以上、気にするほどのことじゃない。


 



ちょうどその時。


資料室の扉が、静かに開く。


書類を抱えたレイラが、

廊下へと足を踏み出した、その瞬間――


ビクッ、と。


自分でも驚くほど、

身体が強く反応した。


(……なに……?)


視線が、自然とある方向へ向く。


歩いていく背中。

遠ざかる足音。


――テュエル。


その横顔を捉えた瞬間、

胸の奥が、ひやりと冷えた。


(……また……)


あの感覚。


名前をつけられない、

けれど、確かに覚えのある違和感。


(……誰……?)


分からない。


匂いが、しない。

気配が、曖昧だ。

感情が――読み取れない。


まるで、

そこに「居るはずのもの」が、

抜け落ちているような。


「……テュエル?」


恐る恐る呼びかけると、

彼は一瞬だけこちらを見た。


「どう……した?」


反応を待つが、なにも返ってこない。


その時


テュエル

「鋭い……」


え――今、何を言った?

誰のことを指していた?


「鋭い、とは……?」


問い返そうとして、

言葉が喉で止まる。


 


聞いてはいけない気がした。

 


「……テュエル……」


思わず、声が漏れる。


(どうしたんだ……)


少し踏み寄ろうとして

 一歩を踏み出そうとした瞬間。


――やめろ。


心の奥で、

はっきりとした警告が鳴った。


確認してはいけない。

追いかけてはいけない。


理由は分からない。

けれど、従わなければならないと、

本能が理解していた。


手が、微かに震える。



そしてテュエルは立ち去ってしまう。



(……あ……………………)

(行ってしまった………………)

(あれは……なんだ……。) 


失いたくない。


大切な人が、

目の前で、少しずつ失われていく。


――居るのに、居ない。


どうすればいいのか、

もう、分からなかった。


――――


廊下の角で、レイラは足を止めた。


「……シャガル……」


呼びかける声は、いつもより少し低く、迷いを含んでいた。


振り返ったシャガルが、眉を寄せる。


「どうした」


言いかけて、レイラは唇を噛む。


「……テュエルが……」


その名を口にした瞬間、言葉が途切れた。


視線が揺れる。

迷い、ためらい、そして――引き下がる。


「……いや。なんでもない」


それだけ言って、踵を返した。


シャガルはその背中を、無言で見送る。


(……違和感を、感じているな)


レイラが、誰にも相談せずに飲み込む時。

それは決まって、直感が“確信に近い何か”を掴んでいる時だ。


(もしかして……いや)


シャガルは目を細める。


(まだ、確証はない)


だが、胸の奥に引っかかる名があった。


――魄喰(はくくい)


「……調べるか」


低く呟いた声は、誰にも届かない。



その夜。


レイラは自室で、灯りを落としていた。

疲労が重く、思考が鈍る。


(少し、休もう……)


そう思った、その瞬間。


布が、軋んだ。


次の瞬間、視界が反転する。


「……っ」


身体が、寝台に押し倒された。


「テュエ――?」


名を呼ぼうとして、言葉が詰まる。


馬乗りになっているのは、確かにテュエルだった。

見慣れた顔。

見慣れた体温。


(……久々に、欲したのか……?)


一瞬だけ、そう思ってしまった自分に、

レイラは息を呑む。


だが――


次の瞬間。


首元に、冷たい感触。


歯。


「――――っ!!」


肉を裂く感覚と同時に、熱が弾けた。


血が噴き出す。


「あぁっ!!!!」


叫び声が、部屋に響いた。


その声に反応したのか、

テュエルの腕の力が、一瞬だけ緩む。


レイラは反射的に膝を立て、

全力で蹴り上げた。


身体が転がり、距離が生まれる。


息を乱しながら、レイラは立ち上がる。


その時だった。


灯りの届かない壁際。


影が――揺れた。


いや、増えている。


一つではない。

重なり合い、うねり、形を持とうとしている。


レイラは、喉の奥が凍るのを感じた。

 


「………返せ……」


声は、震えていなかった。


「テュエルを、返せ……!」


影が、くつくつと笑う。


《返してほしい?》


《では――》


《取りに来い》


次の瞬間。


視界が、黒に塗り潰された。


魂を、引き剥がされる感覚。


身体は、床に倒れたまま。

だが、意識だけが引きずり込まれる。



その間にも。


テュエルは、再びレイラに跨がっていた。


無表情のまま。

呼吸も乱れず。


口が、首元へ近づく。


“喰う”ために。



扉が、破壊される音。


「――レイラ!!」


飛び込んだ瞬間、

シャガルの思考が、一瞬止まった。


床に横たわるレイラ。


首元から流れ落ちた血が、

床に広がっている。


呼吸しているのかすら、

一瞬ではわからないほど、動かない。


防ぐ腕も、

逃げる姿勢もない。


完全に、無防備だった。


そして、その身体の上に――

影を落とすテュエル。


シャガルの声が、喉の奥に沈む。

 

「……何を、した」


怒号ではない。

怒りを圧縮した、静かな声音。


影が、再び揺らめく。


《こいつが、いなければ》


《レイラは、ずっとお前のものだった》


《邪魔だろう?》


テュエルの喉が、動く。


(……そうだ)


(……いつから、間違えた)


(……そう……酒呑童子だった頃のお前だ)


ゆっくりと、顔を上げる。


その目に映るシャガルの姿が、

かつての幻影と重なって歪む。


「……お前」


声は、感情を含まない。


「邪魔だ」


「俺と、レイラ様の……邪魔だ」


その瞬間。


部屋全体が、闇に沈んだ。


壁も。

床も。

天井も。


すべてが、脈打つ“闇”。


――魄喰の腹の中。


シャガルは、確信する。


「……貴様」


視線を、影へ向ける。


「魄喰だな」


舌打ちが、闇に落ちる。


(厄介なものに、目をつけられた)


冥炎では、消せない。

斬れば、器が壊れる。


――レイラが、悲しむ。


シャガルは、武器を構えない。


一歩、前へ出る。


「……絆が、その程度か」


低く、しかし確かな声で。


「そうだ」


「余に、ぶつかってこい」


「お前の想いだろう」


「――全力で、受け止めてやる」


影が、愉悦に歪む。


《最高の器だ》


心は脆く。

身体は最強。


しかも、王はとどめを刺せない。


《実に……美味い》



その頃。


レイラは、落ちていた。


――テュエルの、潜在意識の中へ。


喰われたのだ。


目を開けると、

そこは見慣れた城の廊下だった。


「……テュエル?」


返事はない。


空気だけが、重く澱んでいる。


レイラは、走り出した。


――早く、見つけなければ。


そう、本能が叫んでいた。

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