レイラが初めてテュエルを恐れた日
部屋に戻り、
テュエルは何も考えずに扉を閉めた。
パタン。
それだけだった。
鍵もかけていない。
乱暴でもない。
ただ、いつも通りの力で、扉を押しただけ。
……なのに。
その反動が、
胸の奥に、すべてを返してきた。
支えていたもの。
耐えていたもの。
積み上げてきた理由。
――全部。
ずるり、と落ちた。
音は、なかった。
割れる感覚も、砕ける痛みもない。
ただ、
中身が抜け落ちるように。
思考が、止まる。
「いつからだ」とも、
「なぜだ」とも、
もう、考えない。
問いが、生まれない。
怒りも、悲しみも、
嫉妬も、絶望も。
――何も、残らない。
胸の奥にあったはずの“何か”が、
最初から存在しなかったかのように、
消えていた。
息はしている。
心臓も、動いている。
それなのに。
(……ああ)
声にならない理解だけが、落ちる。
――俺は、もう、何でもいい。
守る理由も。
耐える意味も。
選ぶ価値も。
すべて、
必要なくなった。
テュエルは、その場に立ったまま、
何も感じず、
何も思わず、
ただ“在る”だけになった。
感情の匂いは、
完全に、消えていた。
それは回復の兆しでも、
安定でもない。
完全な無。
――ここから先、
壊れていることすら、
もう、自覚できない場所だった。
そして。
その“空白”に、
何かが、入り込む余地だけが、
静かに、開いていた。
――――――
執務室
――――――
筆先が、紙の上を滑っていた。
淡々と、いつも通りの皇務。
積み上げられた書類。
規則正しい呼吸。
室内には、紙と墨の匂い。
何も、おかしくない。
レイラは文面を追いながら、
次の一行に筆を進めようとして――
その瞬間だった。
ゾクッ――――――
背中を、冷たいものが撫でた。
(……?)
音は、しない。
気配も、ない。
なのに。
――いる。
理由も根拠もないのに、
確信だけが、背後に立ち上がる。
レイラは、筆を持ったまま動けなくなる。
さっきまで、確かに感じていたはずのものがない。
あの、微かな感情の匂い。
背後を支えてくれていた、気配の重なり。
――空白。
なのに、背後が「空」
ではないことだけが、はっきり分かる。
(……誰……)
喉が、ひくりと鳴る。
振り向くべきだと、分かっている。
それでも、体が拒む。
今、振り向いたら――
“知っているもの”が、そこに無いかもしれない。
室内の空気が、わずかに重くなる。
息が、うまく吸えない。
レイラは、ゆっくりと、声を探した。
「…………」
声にならない。
それでも、意を決して、
ほんの少しだけ首を動かす。
――視界の端。
そこに、立っていた。
テュエル。
いつもの位置。
いつもの立ち方。
いつもの距離。
服装も、表情も、何一つ変わっていない。
なのに。
何も、感じない。
感情がない、ではない。
消えている、でもない。
――最初から、無かったみたいに。
レイラの指先が、震える。
(……ちがう)
思考が、必死に否定する。
だって、テュエルだ。
間違えるはずがない。
何度も、何度も、背後を預けてきた相手だ。
それなのに。
心の奥が、叫んでいる。
――触れてはいけない。
恐怖に、似ている。
でも、恐怖じゃない。
それは、
存在そのものへの拒絶反応。
レイラは、ようやく声を絞り出す。
「……テュエル?」
呼びかけた瞬間、
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
テュエルは、すぐに反応する。
「……はい」
声は、いつも通り。
落ち着いていて、丁寧で。
――だからこそ。
レイラの背筋に、冷たい汗が浮かぶ。
(……なん……だ…?)
返事はある。
姿もある。
声も、ある。
なのに、“中身”だけが、抜け落ちている。
まるで、
中身を失った殻が、
役目だけを覚えて立っているみたいに。
レイラは、思わず視線を逸らす。
見続けてはいけない気がした。
見続けたら、
“理解してはいけない何か”
を理解してしまいそうだった。
「……っ」
喉が、きゅっと締まる。
自分が今、
恐怖しているという事実を、
認めたくなかった。
テュエルは、何も言わない。
ただ、そこに立っている。
守るためでも、
見守るためでもなく。
――立っているという行為だけ。
レイラは、震える手で筆を置いた。
胸の奥が、ざわつく。
(……気のせい……だ…)
そう、言い聞かせる。
けれど、
その言葉は、どこにも根を張らなかった。
なぜなら。
この違和感は、理屈じゃない。
生き物として、
本能で感じ取ってしまったものだから。
レイラは、ゆっくりと息を吐く。
そして、もう一度だけ、思ってしまう。
(……今、私の後ろにいるのは)
本当に、テュエル?
――
扉が、ガラリと音を立てて開いた。
誰が開けたのかなど、考えるまでもない。
この扉を、叩かずに開けるのは――
一人しかいない。
シャガルだ。
いつもの調子で、遠慮なく扉が押し開かれる。
「レイラ――」
特別な警戒もなく、
いつもと変わらぬ足取りで室内に入り、
そして
――レイラの姿を見た瞬間、動きが止まった。
歩みが、ぴたりと止まる。
「……どうした?」
声音が、わずかに低くなる。
顔色。
手元。
呼吸。
即座に、異変を拾い上げる王の目。
レイラは、はっとして顔を上げる。
けれど、言葉が出てこない。
――言えない。
言葉にした瞬間、
それが「本当」になってしまう気がした。
(……言えない)
自分の口から、
テュエルが怖いなんて。
そんなこと、
考えたくもない。
ましてや、口に出すなんて――。
「……なんでも、ない」
やっと絞り出した声は、
自分でも驚くほど掠れていた。
シャガルは、眉をひそめる。
「……だが、顔色が――」
「……大丈夫」
重ねるように言って、
レイラは視線を伏せた。
これ以上、見られたくなかった。
自分の中の動揺も、
背後に立つ“それ”も。
シャガルは、数秒だけ黙る。
そして、ため息にも似た息を吐いた。
「……無理をするな」
次の瞬間。
ぐっと、身体が浮いた。
「……っ」
いつものことだ。
慣れているはずの感覚。
シャガルは迷いなく、
レイラを腕に抱き上げていた。
「今日は、ここまでだ」
有無を言わせない声。
「部屋へ戻る」
「……シャガル、私は……」
「顔色が悪い」
短く、断言する。
「それだけで、十分だ」
そのまま、踵を返す。
掻っ攫うように。
けれど、抱く腕は変わらず穏やかで。
レイラは、反論できないまま、
ただシャガルの肩に顔を埋めた。
――その瞬間。
視界の端で、
テュエルと目が合った。
……いや。
合った、はずだった。
けれど。
そこには、
何も返ってこなかった。
引き留める気配も。
戸惑いも。
痛みも。
ただ、
“見ている”という事実だけ。
レイラの喉が、ひくりと鳴る。
――やっぱり。
(……違う)
シャガルが、気づかないまま歩き出す。
足音が、遠ざかる。
扉が閉まる。
室内には、
テュエルだけが残された。
――静寂。
テュエルは、その場から動かない。
視線だけが、
閉じた扉を、なぞる。
胸の奥は、静かだった。
何も、湧き上がらない。
嫉妬も。
痛みも。
焦りも。
「奪われた」という感覚すら、ない。
ただ、
“状況”を認識しているだけ。
レイラが抱き上げられ、
連れて行かれた。
――それだけ。
それに対して、
心が反応する必要性を、
見失っていた。
テュエルは、ゆっくりと瞬きをする。
呼吸は、整っている。
脈も、正常だ。
異常は、どこにもない。
――ない、はずだった。
けれど。
何かを失ったことすら、分からない状態が、
どれほど異常かを、
本人だけが理解していない。
テュエルは、
何も感じないまま、思う。
(……皇務は、中断か)
それだけ。
それ以上でも、
それ以下でもない。
⸻
その日の夜。
テュエルの自室には、
誰も訪れなかった。
灯りが、揺れる。
影が――増えている。
壁際。
天井の隅。
床の縁。
本来なら、ひとつであるはずの影が、
いくつにも重なり、歪んでいる。
空気が、重い。
息をするたび、
喉の奥に、何かが絡みつくような感覚。
だが――
テュエルは、何も感じていなかった。
(……夜か)
それだけ。
違和感も。
恐怖も。
疑問すらも、浮かばない。
灯りを落とす。
影が、濃くなる。
――笑い声は、なかった。
だが確かに、
何かが、そこに在った。
その夜、
月は空に姿を見せていなかった。
――新月だった。




