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愛した人が別の男と結ばれた翌日

朝の宮内は、いつも通りに動き始めていた。


朝餉の支度の音。

文書を運ぶ足音。

遠くで交わされる、控えめな声。


すべてが、昨日までと変わらない。


執務室に入ったレイラは、淡々と皇務に取り掛かった。

その背中は、いつも通りに凛としている。


――何も、言わない。


それが、かえって胸に引っかかった。


テュエルは補佐として控えながら、

無意識のうちに、その背を見つめていた。


(……まだだ)


自分に言い聞かせるように、思う。


(まだ、確定じゃない)


もしかしたら。

本当に、もしかしたら――


(……踏みとどまったかもしれない)


レイラ様は、思いとどまったのかもしれない。

夜を越えただけで、

あの扉の向こうには、踏み込まなかったのかもしれない。


淡い期待だった。

自分でも、縋るような願いだと分かっている。


――その時。


執務室の扉が、遅れて開いた。


空気が、わずかに変わる。


入ってきたのは、シャガルだった。


「……遅れた」


低く、落ち着いた声。


「…ん…おはよう……」


レイラは顔を上げ、いつもと変わらぬ調子で応じる。


視線が交わる。

言葉は、それだけ。


ただそれだけなのに――


テュエルは、理解してしまった。


ああ……。


(……したんだ)


確信に至る材料など、何もない。

証拠も、匂いも、言葉もない。


それでも。


二人の間に流れる、あまりにも自然な空気。

夜を共に越えた者同士にしか生まれない、微細な距離感。


――確定。


その瞬間。


音は、鳴らなかった。


何かが砕ける音も、

胸を刺す痛みも、なかった。


ただ、


テュエルの内側で、

確かに「在ったはずの何か」が、崩れ落ちた。


……すとん。


落ちたのは、希望だったのか。

理性だったのか。

それとも、未来そのものだったのか。


分からない。


ただ、戻らないとだけ、分かった。


レイラは、ふと視線を巡らせ、

一瞬だけ、テュエルを見る。


ほんのわずかな、ためらい。

罪悪感を含んだ、曖昧な視線。


そして、眉がかすかに寄った。


(……?)


胸の奥が、ざわつく。


【何も……匂いがしない】


いつもなら感じ取れるはずの、

忠誠、緊張、焦り、想慕――

テュエルから漂っていた、感情の匂いが。


まるで、消えている。


レイラは困惑する。


それが、

安定した無なのか。

それとも――


壊れてしまった後の、無なのか。


その違いを、

まだ、彼女は知らない。





いつからだ……。


いつから、俺は間違えた。


レイラ様が、シャガルの元へ向かおうとした時か?

あの時、引き留めていれば……。


いや、違う。


もっと前だ。


花見の日。

あいつと笑い合い、羽根を打ち合っていた、あの時。


――あの時に、牽制しておけばよかったのか?


……いや。


もっと、もっと前だ。


初めて対峙した、あの瞬間。

まだお前が、酒呑童子だった頃。


あの時。

あの時に――


殺しておけば、よかったのか……?


ドクン。

ドクン。


心臓が、異様な音を立てる。


はっと我に返った時、

背中は冷や汗で濡れていた。


呼吸が、うまくできない。


(……何を、考えている)


自分の思考に、寒気が走る。





西部族長の息子。


鬼才児。

最強の武人になると、囃し立てられていた。


このまま西部を継ぎ、

やがて四部族を束ねる将軍になる道もあった。


……顔だって。

自分で言うのもなんだが、悪くはない。


村の娘。

女官。

誰かと普通に家庭を持つ未来だって、あったはずだ。


なのに――


なんで、俺は。


(……なんで)


レイラ様じゃないと、駄目なんだ。


こんなにも、苦しくて。

こんなにも、痛くて。


それでも。


それでも、

他の未来が、ひとつも欲しくならない。

 


――――――



レイラ視点・朝の執務


朝の執務は、滞りなく進んでいた。


書類は揃い、判断も早い。

各部署からの報告も簡潔で、問題はない。


そして――

テュエルの補佐も、相変わらず正確だった。


必要な情報だけを、必要な順で。

無駄な言葉はなく、判断を誤らせることもない。


完璧だ。


……けれど。


言葉が、少ない。


指示に対する返答も、報告も、

すべてが“必要最低限”に収まっている。


(……疲れているのかな)


そう思った。


ここ最近、無理をさせすぎたかもしれない。

気づかぬうちに、負担を重ねていたのかもしれない。


今日は少し、仕事を減らそう。


そう判断して、いくつかの案件をシャガルに回した。


テュエルが壊れてしまわないように。

それだけを、考えていた。



テュエル視点・朝の執務


補佐は、問題なく終わった。


判断も、進行も、何一つ滞りはない。

いつも通りだ。


……なのに。


レイラ様と、視線が合わない。


呼ばれるのは、必要な時だけ。

それ以外は、静かだ。


(……シャガルに、回したのか)


俺を挟まなくてもいい。

そう判断された、それだけのことだ。


胸の奥が、わずかに冷える。


まだ、確定じゃない。

ただの効率だ。

気遣いかもしれない。


――そう、言い聞かせた。



三人での茶・レイラ視点


昼、短い休憩を取ることになった。


三人で茶を飲むのは、久しぶりだった。

シャガルが話題を振り、場は穏やかに進む。


テュエルは静かだが、表情は落ち着いている。


無理に笑っている様子もない。

受け答えも、自然だ。


(……大丈夫、そう)


無理に話させる必要はない。

今は、この静けさを守ろう。


そう思い、あえて踏み込まなかった。



テュエル視点・三人での茶


笑っている。

二人が、自然に。


会話の流れに、無理がない。

俺が口を挟まなくても、困らない。


(……俺は、余分だな)


茶の味が、よく分からない。

香りも、温度も。


胸の奥で、何かが

すとんと、落ちた気がした。


音は、しない。



兵の稽古・レイラ視点


午後は、兵の稽古を視察した。


テュエルの剣は、相変わらず美しい。

無駄がなく、迷いがない。


動きは正確で、判断も早い。


(……あれ?)


なのに。


どこか、遠い。


声をかけようとして――やめた。

集中を乱したくなかった。


今は、見守るべきだ。

そう判断した。



テュエル視点・稽古


身体は、よく動く。

剣も、思考も、問題ない。


なのに。


歓声が、遠い。

勝っても、負けても、何も残らない。


(……俺は、何を守っている)


答えが、浮かばない。

浮かばないことに、焦りもない。


ただ、空だ。



夜・レイラ視点


夜。


声をかけるべきか、迷った。

けれど、今日の彼はずっと静かだった。


(……今夜は、休ませよう)


欲することが、

いつも優しさになるとは限らない。


そう、自分に言い聞かせて、

シャガルの寝所へ向かった。



テュエル視点・夜


呼ばれなかった。


それだけだ。

理由は、いくらでも考えられる。


疲れている。

気を遣われた。

今日は、たまたま。


……分かっている。


それでも。


(……ああ)


胸の奥で、

最後の期待が、静かに剥がれ落ちた。


音は、しない。

ひび割れる感覚すら、もうない。


――あぁ。


俺は、もう、いらないんだ。



レイラは思った。


今日も、静かだ。

落ち着いた、いい一日だった。


テュエルは思った。


今日も、何も起きなかった。

俺がいなくても、世界は進んだ。


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