表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
122/130

夢じゃなかった――妖王と迎える初めての朝

夜の宮内は、音を失っていた。


灯りは落とされ、廊下に並ぶ燭台の火だけが、ゆっくりと揺れている。

その淡い光の中を、レイラは静かに歩いていた。


一歩、また一歩。


足音は小さいのに、胸の鼓動だけがやけに大きい。


(……不思議だな)


怖くはない。

逃げたいとも、思わない。


ただ、胸の奥がじんわりと熱を帯び、

長い間、凍っていたものが溶けていく感覚があった。


――ずっと、こうしたかった。


シャガルの隣で朝を迎えること。

同じ寝所で、同じ時間を過ごすこと。


「抱かれる」という言葉に含まれる意味を、

レイラはもう、曖昧なものとしては捉えていなかった。


それでも、罪悪感が消えたわけじゃない。

テュエルのことを思えば、胸が痛む。


それでも――


(……それでも、私は)


触れてほしい。

触れたかった。


シャガルの温度を、確かめたかった。


立ち止まり、深く息を吸う。

そして、扉の前に立った。


ここまで来るのに、どれほどの時間を費やしただろう。

互いに理性を削り、距離を守り、夜をやり過ごしてきた。


扉を叩くという行為すら必要ない気がして、

レイラはそっと取っ手に手をかけた。


――中から、気配がする。


間違えようのない存在感。

シャガルだ。


扉が開く。


月明かりに照らされ、

シャガルはそこに立っていた。


一瞬、言葉を失う。


いつもと同じはずなのに、

なぜか、ひどく近く感じられた。


「……レイラ」


低い声。


「どうして……ここへ」


一拍、視線が揺れる。


「……もう……よいのか」

「その……身体は……」


それは欲からの問いではなく、

薬がきちんと効いているかという、最後の確認だった。


レイラは、少しだけ目を瞬かせる。


「……知っていたのか」


「……ああ」


短い肯定。


驚きはあった。

けれど、不思議と動揺はしなかった。


むしろ、胸の奥に、静かな安心が広がる。


シャガルは、レイラをまっすぐに見つめている。

欲と愛、そして必死な抑制が、その瞳に宿っていた。


「……触れても、よいのか」


ひどく慎重な問い。


その慎重さが、

彼がどれほどこの瞬間を待ち、耐えてきたかを物語っていた。


レイラは、ふっと小さく笑う。


「うん……」


一歩、近づく。


「そのために、ここに来た」


その言葉が落ちた瞬間、

シャガルの中で張り詰めていた何かが、音もなく解けた。


「……っ」


短く息を呑む。


視線が、結い上げられた髪から、うなじへ落ちる。


「……艶やかだ」

「……そんな姿で来るとは……」


低く、喉が鳴る。


「……余を、どれだけ試すつもりだ」


不器用で、正直な言葉。

それは確かに、男が女を見る視線だった。


レイラは一瞬、言葉を失う。


「……っ」


視線を逸らし、ほんのわずかに頬が熱を帯びる。


「……そんなつもりでは……」


言いかけて、言葉が途切れる。

自分でも、言い訳だと分かってしまったから。


小さく息を整え、もう一度、シャガルを見る。


「……だが……」

「お前に、そう見えるのなら……」


照れを押し隠すように、まっすぐに。


「……それでも、構わない」


その一言で、

シャガルの理性が、静かに軋んだ。


「……レイラ……」


名を呼ぶ声は、いつもより低い。


伸ばされた手が、触れる直前で止まる。

一瞬の躊躇のあと――


そっと、抱き寄せられた。


強くはない。

けれど、逃がさない腕。


抱き寄せられたまま、

ほんのわずかに距離が縮まる。


額が触れ、息が交わり、

次の瞬間――

シャガルの唇が、ためらうようにレイラのそれに触れた。


深くはない。

確かめるだけの、静かな口付け。


それでも、そこに込められた想いは、

言葉よりもずっと多かった。


レイラは、拒まなかった。

ただ、そっと目を閉じ、

その口付けを受け入れる。



胸の奥で、何かがほどけていく。


長い間、求め続けてきた温もりを、

確かめるような抱擁だった。


「……お前を、この手で抱ける日が来るとは……」


低く、かすれた声。


「……夢のようだ」


レイラは、その胸に額を預ける。


伝わる鼓動。

確かな体温。


「……私も」


短く、そう答えただけで、

もう言葉は要らなかった。


夜は、静かに更けていく。


それは奪う夜ではなく、

ようやく辿り着いた、二人だけの時間。


――長い我慢の果てに、

静かに許された、幸福な夜だった。




 ――――――――



 朝の光は、静かだった。


障子越しに差し込むそれは、

夜を切り裂くような強さではなく、

そっと触れてくるような、やわらかな光だった。


シャガルは、目を覚ましてもしばらく動かなかった。


腕の中にある温もり。

一定の呼吸。

規則正しく上下する背中。


――いる。


その事実だけで、胸の奥が満たされていく。


昨夜の熱が、まだ完全には消えていない。

けれど、今はそれよりも、

この静けさが何よりも尊かった。


レイラは、穏やかな寝顔で眠っていた。


緊張も、覚悟も、

あの強さを帯びた表情も、今はどこにもない。


ただ、安らぎだけがそこにある。


シャガルは、思わず小さく息を吐いた。


(……ああ)


やっとだ、と。

心の奥で、そう呟く。


触れないように気を遣い、

距離を測り、

欲を抑え、

夜を越えてきた時間が、

すべてこの朝に繋がっている気がした。


そっと、レイラの髪に指を通す。


夜の間にほどけたそれは、

昨日までよりも、ずっと柔らかく感じられた。


「……」


名前を呼びかけそうになって、やめる。


起こしたくなかった。


この、何も脅かさない時間を、

もう少しだけ、味わっていたかった。


やがて、レイラが小さく身じろぎをする。


眉が、わずかに動く。


ゆっくりと、瞼が開いた。


視線が合う。


一瞬の間のあと、

レイラは気づいたように、ふっと微笑んだ。


「……おはよう」


掠れた、寝起きの声。


それだけで、胸が締めつけられる。


「……ああ。おはよう」


シャガルの声も、自然と低く、穏やかになる。


レイラは、少しだけ目を伏せ、

それから、安心したように息を吐いた。


「……夢じゃ、なかった」


ぽつりと零れたその言葉に、

シャガルは、思わず苦笑する。


「余も……同じことを考えていた」


レイラは、くすっと小さく笑う。


その笑顔は、昨日までのどれとも違っていた。

張り詰めたもののない、

完全に力の抜けた笑顔。


シャガルは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


守るべきもの、ではない。

触れてはいけないもの、でもない。


――今は、確かに、隣にある。


「……レイラ」


名を呼ぶと、彼女は素直にこちらを見る。


その瞳には、迷いも、不安もなかった。


「……今日は」


言葉を選ぶように、一拍置いて。


「……ゆっくり過ごそう」


それは命令でも、遠慮でもない。

ただ、一緒にいる未来を当然のように語る声だった。


レイラは、少しだけ驚いたあと、

やわらかく頷く。


「……うん」


その返事は、短くて、

けれど、何よりも確かなものだった。


シャガルは、少しだけためらってから、

そっと身をかがめた。


昨夜よりも、ずっと穏やかに。

確かめるように。


額に、軽く口付ける。


それは、欲の名残ではなく、

この朝を共に迎えられたことへの、静かな喜びだった。


レイラは、くすぐったそうに微笑み、

小さく目を閉じる。


何も言わずとも、

それだけで、すべてが伝わっていた。

 


朝の光は、さらに部屋を満たしていく。


昨夜の熱を、優しく包み込みながら。


二人はまだ、寝所を出ない。


世界が動き出すよりも前に、

この幸福を、もう少しだけ抱きしめていた。


――それは、確かに“愛し合った後の朝”だった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ