静かに歪む日常
双国の関門が、ゆっくりと開く。
見慣れた石畳。
吹き抜ける風の匂い。
遠くから聞こえる、宮内のざわめき。
――帰ってきた。
そう実感した瞬間、
レイラの足取りは、自然と早くなっていた。
「姫さま!」
声とともに、爺が駆け寄ってくる。
その姿を見た途端、
レイラは堪えきれないように駆け出し、
勢いのまま抱きついた。
「爺!!」
「長い間空けてすまなかった」
「大事なかったか??」
顔を上げ、心からの安堵を滲ませる。
爺は少し目を細め、
いつもの穏やかな笑顔で答えた。
「はい、至って平和な日々でしたよ^^」
「ただ一つ……、問題があったとすれば……」
レイラの眉が、ぴくりと動く。
「なにかあったのか……!?」
一瞬、緊張が走る。
だが次の瞬間。
「あなた方三人が居らず、
宮内が静かで寂しかったことくらいでしょうか!」
「はっはっは!」
拍子抜けするほど、朗らかな声。
レイラは、思わず肩の力を抜いた。
「もう……爺……」
「心配したではないか」
ふふ、と笑いながら、軽く額を寄せる。
爺は一度だけ咳払いをし、
深く、丁寧に頭を下げた。
「……すみませんでした」
「お帰りなさい。姫さま^^」
その言葉に、
レイラは一瞬だけ目を伏せ――
そして、力の抜けた、無防備な笑顔で答える。
「うん……ただいま」
その光景を、少し離れた場所から見つめる二人。
テュエルは、無言で視線を逸らした。
(…………ぅぅ)
(……一生、あれには敵わない……)
シャガルは腕を組み、わずかに歯噛みする。
(……ぐ……)
(なぜ敵わぬ……あの笑顔……ずるいぞ……)
敵わないと分かっていても、
どうしようもなく胸の奥がざわつく。
――だが、それも含めて。
完全に、
【いつもの日常】が戻ってきた瞬間だった。
爺はふと、思い出したように視線を上げる。
「……そういえば、姫さま」
「リア殿たちは、いかがでしたか?」
「長旅でしたでしょう」
「よろしければ、後ほど旅のお話も聞かせてください」
レイラは、ほんの一拍、間を置いてから答えた。
「あぁ……リアは、相変わらず元気だった」
そして、言葉を選ぶように続ける。
「……だいぶ、世話になった」
それは
助力への感謝であり、
軽くは済ませられない“借り”でもあり、
それ以上を語らぬための含みだった。
爺は一瞬だけ目を細め、
すべてを察したように、静かに頷く。
「……それは、それは」
「双国としても、礼を尽くさねばなりませんな」
「うん――」
レイラの声音が、わずかに低くなる。
「後日で構わない」
「煌龍国へ、正式に礼状と――」
「それから、品を送ってくれ」
「承知いたしました」
「国として、相応のものを用意いたしましょう」
「頼む」
短い一言。
だがその中には、
“個人の感謝”と“国の責任”が、確かに込められていた。
⸻
帰還の余韻に浸る暇もなく、
レイラはすぐに、執務室へと引き戻される。
積み上げられた書類。
待ち構えていた報告。
爺ができる限り整理してくれていたとはいえ、
留守の期間は、あまりにも長かった。
「……ふぅ……」
気づけば、何日も執務室に籠りきりだ。
夜が更け、
ようやく一息ついた頃。
レイラは、小さな瓶を手に取った。
シュンが調薬した――避妊薬。
躊躇はない。
口に含み、
水で流し込む。
ごくり。
喉が、静かに鳴る。
「……よし……」
胸の内で、淡々と記録する。
(三日目……特に、体に影響はなし……)
指先を見つめ、
呼吸を確かめる。
(とりあえず……一週間)
(いや……一月は、様子を見るべきだな)
(シャガルが……余計な心配をせぬように)
机に置かれた書類の山と、
小さな薬瓶。
どちらも、
今の自分にとっては等しく「責任」だった。
レイラは背筋を伸ばし、
再び筆を取る。
双国の執務室は、変わらず静かだった。
窓から差し込む光は柔らかく、
書架に並ぶ文書も、机の配置も、
旅立つ前と何ひとつ変わっていない。
――日常だ。
そう思えてしまうほどに。
レイラは机に向かい、淡々と書類へ目を落とす。
報告。
決裁。
返書。
爺が進めてくれていた分は多い。
それでも、空けていた時間はやはり重く、
レイラは連日、執務室に籠りきりだった。
背後では、テュエルが書類を仕分けている。
シャガルもまた、珍しく執務室に入り、
確認を終えた文書を無言で積み上げていく。
――いわゆる、手伝いだ。
三人は、同じ空間にいる。
それだけで、本来なら心は落ち着くはずだった。
――だが。
「……こちらは、規則改定案です」
テュエルの声が、わずかに遅れた。
ほんの一拍。
言葉にすれば、誤差のようなもの。
だが、レイラは気づいた。
「……ありがとう」
受け取り、視線を落とす。
筆を走らせながら、
ふと、背後の気配に意識が向く。
わずかに感じる、悲しみの匂い。
それが分からないほど、
レイラはもう、鈍くはなかった。
――それでも。
今、立ち止まることはできない。
レイラは何事もないように、
書類から目を離さなかった。
テュエルは、書類の列を整えながら、
一瞬だけ思考を逸らす。
――見てしまった。
レイラ様の自室で。
あの、小さな瓶を。
見張っていたわけではない。
見ないようにしても、
視界の端に、どうしても入ってしまった。
……減っている。
服薬している。
それが何を意味するのかも、
これから何が起こるのかも、理解している。
理解している、はずなのに。
思考から、その光景が離れない。
胸の奥が、鈍く、痛んだ。
「……」
書類の数字を、読み違える。
一度、手が止まる。
筆先が、わずかに震えた。
「テュエル」
レイラの声。
責めるでも、疑うでもない。
ただ、いつもの調子で。
「……疲れているのか?」
テュエルは、一瞬だけ目を伏せた。
ほんの、刹那。
「……いえ」
すぐに顔を上げ、
完璧な微笑を貼りつける。
「問題ありません^^」
だが、その返答は、
どこか“出来上がりすぎて”いた。
シャガルは、それを黙って見ていた。
言葉は挟まない。
視線も、交わさない。
だが、
空気の歪みだけは、確かに感じ取っている。
――今は、触れるべきではない。
シャガルは、積み上げた書類を静かに置く。
音は、しない。
だが、その沈黙が、
かえって重く、室内に落ちた。
レイラは再び、筆を走らせる。
何も言わない。
問いたださない。
分かっているからこそ、
今は、皇務を続けるしかなかった。
三人は、同じ執務室にいる。
変わらない配置。
変わらない日課。
――それなのに。
誰一人、
“同じ場所”には立っていなかった。
静かに。
確実に。
日常は、ほんの少しだけ、
歪み始めていた。




