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その優しさは、魂を救う

朝の光は、思ったよりも穏やかだった。


窓から差し込む薄い陽が、

畳の上に、静かな影を落としている。


宿はまだ、完全には目覚めていない。


テュエルは、先に起きていた。


護衛の習慣。

それ以上に――

眠れるはずが、なかった。


廊下を進み、

朝餉の支度が始まる気配を確認してから、

静かに広間へ戻る。


そして――


レイラの顔を見た。


一瞬で、分かった。


目元。

わずかな腫れ。

隠そうとしても、消えきらない痕。


(……泣いた)


それだけで、十分だった。


(……あぁ)


胸の奥で、

何かが、すとんと落ちる。


(……俺の、せいだ)


責める声ではない。

ただの、事実の確認。


――この旅は。


ただの、気晴らしでも、

祝宴の前触れでも、

再会を喜ぶだけの時間でもなかった。


レイラは、

最初から分かっていたのだ。


この煌龍国への道行きが、

何を意味するのか。


俺。

シャガル。

リア様。

シュン殿。


四人分の想いを――

一人で、背負うつもりだったと。


(……重かっただろうな)


視線を落とす。


そして、

別のことにも、気づく。


(……リア様は……)

(……聞いたんだな)


昨夜のこと。

レイラ様が、誰に、頼ったのか。


――リア様。


それは、

胸の奥が、少しだけ、軋む事実だった。


(……羨ましい)


正直な気持ち。


けれど――


すぐに、それは、

別の感情に、上書きされる。


(……感謝しか、ない)


あの人なら。

レイラ様を、

責めず、

裁かず、

抱きしめてくれたはずだ。


(……ありがとうございます)


声には、しない。


けれど、

確かに、そう思った。


テュエルは、

そっと立ち上がる。


桶に水を汲み、

冷たい手ぬぐいを取る。


冷水に浸し、

軽く絞ってから――


レイラの前に、膝をついた。


「……失礼します」


小さく、そう告げて。


目元に、

そっと、当てる。


 

冷たさに、

レイラが、わずかに瞬いた。


「……っ」


「……少し、腫れています」


淡々とした声。


「シャガルが起きる前に」

「……引かせましょう」


強くは、押さえない。

触れているのは、

必要最低限。


けれど――

その所作は、

あまりにも、慣れていて、

あまりにも、優しい。


(……泣かせてしまったのに)


(……俺は、まだ、傍にいる)


それが、

テュエルにできる、

唯一の、抵抗であり、

唯一の、祈りだった。


朝の光が、

少しだけ、強くなる。


何も言わないまま、

二人は、同じ朝を迎えていた。


――このあと、

誰もが、笑顔を作らなければならないことを、

知りながら。


 ――――――――


「……ふむ」


低く、短い声。


シャガルは、広間に足を踏み入れた瞬間に、

レイラの顔を見ていた。


――一目で、違和感を拾う。


ほんのわずか。

目元の影。

いつもより、静かな呼吸。


(……昨夜、何かあったな)


確信に近い感覚。


だが、

シャガルは、そこで止めた。


踏み込まない。

問い詰めない。

触れない。


代わりに――

いつも通りの声音で、言う。


「女童と、随分と楽しんだようだな」


からかうでもなく、

責めるでもなく。


ただ、

“そういうことにしておく”声。


レイラは、一瞬だけ目を瞬かせ、

それから、小さく笑った。


「……あぁ」

「少し、話し込んだ」


それで、終わり。


シャガルは、それ以上、何も言わない。


(……今は、良い)


違和感の正体は、

後で、必ず辿り着く。


今は――

まだ、聞く時ではない。


その視線が、

一瞬だけ、テュエルに向く。


何も言わない。

だが、すべてを見ている男の目。

最近のしおらしい態度。


テュエルは、視線を受け止め、

静かに、目を逸らす。


(……気づいているな)


互いに、

それ以上は、踏み込まない。


朝餉は、

何事もなかったかのように進んだ。


誰も、

昨夜のことを口にしない。


誰もが、

それぞれの“知っていること”を、

胸の奥にしまったまま。



城へ向かう馬車の中。


リアは、窓の外を見ながら、

ふと、レイラに囁く。


「……シュンのこと」

「城に着いたら、すぐでいい?」


レイラは、迷わず頷いた。


「あぁ」

「……二人きりで、話したい」


その言葉に、

リアは、何も言わず、理解を示す。


(……ここからが、本番ね)


城門が、近づく。



 

――――――

煌龍城・特別室

――――――

案内されたのは、

城の奥、

厚い壁に囲まれた静かな一室。


声は、外へ漏れない。

人の気配も、ない。


本来は、

密談や、極秘の会話のための部屋。


リアが、扉の前で足を止める。


「……私たちは、外で待つわ」


レイラ

「ありがとう」


短いやり取り。


リアは、シュンにだけ、

一度、視線を向けた。


何も言わない。

けれど――

覚悟を促す目だった。


扉が、閉まる。


重い音。


がちゃん、と、鍵がかかる。


部屋に残ったのは、

レイラと、シュン。


二人きり。


逃げ場のない、

静寂。


シュンは、しばらく、口を開けなかった。

 

昨日テュエルから言われていた

 

「明日…」

「レイラ様から」

「あなたに告げられる“頼み”は――」

「……楽なものではありません」


 その言葉を思い出していたから。


 

レイラは、

一歩、前に出る。


そして、

深く、息を吸った。


(……ここからだ)


(……逃げない)


この部屋で、

誰かを傷つける覚悟も、

誰かに恨まれる覚悟も、

全部――

引き受けるつもりだった。


 ――――


 

声の漏れない、城の奥の部屋。


レイラは、

いつものように背筋を伸ばしているのに――

どこか、壊れそうだった。


そして、テュエルじゃなくても。

俺にも、分かる。


昨日の夜。

あの後、レイラは――泣いた。


(……なんだよ、その顔)


胸の奥が、ざわつく。


ただの相談じゃない。

そんなこと、レイラが煌龍国に来た瞬間から、分かっていた。


レイラは、逃げ場を探すみたいに、

一瞬だけ視線を伏せてから、言った。


「……シュン」


名前を呼ばれただけで、

心臓が、ぎゅっと掴まれる。


「……今日は、謝りに来た」

「それから……頼みがある」


(謝る?

 レイラが?)


嫌な予感が、背中を這い上がる。


ゆっくり、ゆっくりと。

彼女は――全部を話した。


シャガルのこと。

妖の身体のこと。

命の話。


そして――次の言葉はシュンの心臓に突き刺さった

 


「……避妊薬を」

「作ってほしい」


……え?


一瞬、言葉の意味が、脳に届かなかった。


避妊薬。


(……は?)


胃の奥が、ひっくり返る。


(それって……)

(レイラが……)

(シャガルと……)


視界が、ぐらっと揺れる。


嫌だ。

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


(作りたくない)

(無理)

(そんなの……)


……待って。


もしかして――

テュエルは……知ってるってこと……?


(うそ……だろ……)

(自分の奥さん……なのに……)

(なんで……)


でも、口から言葉が出てこない。


(俺は……)

(レイラにとって)

(夫でもない)

(恋人でもない)

(ただの……友達だ)


「嫌だ」なんて、

言える立場じゃない。


(……でも)

(もし、俺が作れないって言ったら)

(やめてくれるのか……?)


一瞬だけ、そんな卑怯な期待がよぎって、

すぐに、自己嫌悪で潰れた。


(……ない)

(そんなこと……)


レイラの顔。


あんなに辛そうで、

自分を責める色を、隠しもしない顔。


(そんな顔されて)

(引き止めるなんて)

(できるわけ……)


視線を合わせたら、だめだ。


反射的に、目を閉じる。


(ダメだ……)

(心、読まれる)


――レイラは、そういう人だ。


想いが強ければ強いほど、

目を合わせれば、心が聞こえる。

……そう言っていた。


(嫌だ)

(こんな本音)

(見せたくない)


シャガルのところへ行かないで、なんて。

作りたくない、なんて。

独占欲まみれの、子供みたいな感情。


(ダサすぎる……)


でも、ふと、思う。


……いや。


(これが、俺だ)


15歳で。

大人でもなくて。

完璧でもなくて。


(でも)

(これが、俺の……)


逃げないで、

自分のまま、立つしかない。


それが――

俺の、愛し方だ。


報われなくても。


まぶたを、開く。


真正面から、

レイラの瞳を見る。


――ああ。


やっぱりだ。


全部、見透かされる気がして、

それでも、逃げなかった。


「レイラ」


自分でも驚くほど、

声は、落ち着いていた。


「……やるよ」


喉が、きゅっと鳴る。


「俺が」

「レイラの薬」

「作ってみせる」


(嫌だ)

(行かないでほしい)

(シャガルのところに……)


全部、心の中に押し込めて。

でも、隠さない。

さらけ出す。


(でも)

(君の頼みなら)


――好きだよ。


(聞こえる?

 俺の、この強い想い)


その言葉だけが、

心の奥で、静かに、燃えていた。


次の瞬間。


レイラの目から、

音もなく、涙が溢れた。


俯いて、

肩を震わせる。


俺は、ただ、そこに立ち尽くす。


レイラは、泣きながら、笑った。


「……ありがとう……」

「シュン……」


声が、壊れている。


「……私は」

「お前を……振りに来たのに……」


胸が、締め付けられる。


「傷つけて」

「最低なことを言って」

「……悪者になるつもりだった」


震える息。


「なのに……」


指の隙間から、

涙が、止まらない。


「……こんなに、まっすぐに……」

「……自分が……」

「……情けない……」


(……ああ)


よかった。


俺は、

彼女を、悪者になんかしたくない。


少しでも、楽になってほしい。

自分を、責めないでほしい。


俺が……

勝手に……想ってるだけだ。


「……シュン」


名前を呼ばれる。


「お前は……」

「本当に……優しいな」


違う。


優しいんじゃない。


ただ……

好きなだけだ。


それだけで、

選んだだけだ。


双国を去るとき、

レイラに言われた言葉が、胸に蘇る。


【シュン、そなたの知識は命を救う。

 そして、その優しさは“魂”を救う。

 どちらも、誇って生きよ】


(俺が……)

(レイラの命……救えるんだ……)

(魂を……救えたのかな……)


でも――


この選択が、

この人の心を、少しだけでも軽くしたなら。


それで、いい。


レイラは、

ゆっくりと、頭を下げた。


「……私は」

「一生、忘れない」


その言葉が、

胸の奥に、深く、刺さった。


振られたはずなのに。

失ったはずなのに。


――不思議と、後悔はなかった。


(……これでいい)


これが、

俺の初恋だ。


 そうして俺は、

泣き続けるレイラを椅子に座らせ、

背中を撫で続けることしか、できなかった。

 

 

 

シュン……。

お前………。


泣。


うっぷ……。

しかし、煌龍国編、重すぎて胃もたれしそう……。

番外編でお口直しして下さい……。

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