壊れると分かっていても、彼女を手放せなかった
朝の資料室は、冷えていた。
夜通し灯されていた蝋燭の残り香と、
古い紙とインクの匂いが、薄く空気に溶けている。
扉を開けた瞬間、
テュエルは――息を止めた。
(……やはり)
予感は、外れてほしかった。
机に突っ伏すようにして眠る、レイラ。
夜着のまま。
ほどけた髪。
指先には、乾ききらないインクの跡。
それだけで、胸が痛んだ。
足元には開きっぱなしの書物。
机の上には――
散らばる付箋。
走り書きの紙片。
几帳面とは言い難い、切迫した文字。
テュエルは、音を殺して近づく。
まず、何も言わない。
そっと外套を外し、
彼女の肩に掛ける。
起こす必要はない。
起こしてはいけない。
――そう、思った。
だが。
視線が、どうしても紙に吸い寄せられる。
⸻
付箋。
《周期調整》
《副作用 少》
別の紙。
《長期服用 ×》
《一時的処置なら可》
ページの端。
《堕胎 不可》
《身体負担 大》
《却下》
その文字を認識した瞬間、
テュエルの胸の奥で、何かが――鈍く、砕けた。
(……まさか……)
さらに、別の書物。
《避妊》
《薬草》
《処方》
《安全》
《安全》
《安全》
同じ言葉が、何度も何度も、書き殴られている。
安全。
安全。
安全。
――誰のためかなんて、考える必要もなかった。
喉が、焼けるように痛む。
「……レイラ、様……」
声にならない。
(……そんな顔で……)
(……そんな覚悟で……)
(……他の男に、触れられる準備を……)
胸が、きしむ。
想像が――勝手に、広がる。
シャガルに抱かれるレイラ。
熱を分け合う身体。
そのすべてを、自分が許しているという事実。
胃の奥が、ひっくり返りそうになる。
(……嫌だ)
正直な気持ちが、遅れて浮かぶ。
嫌だ。
苦しい。
痛い。
奪われるようで、耐えられない。
――それでも。
(……それでも……)
歯を、食いしばる。
(……壊れたあなたを見るくらいなら……)
拳を握る。
爪が、掌に食い込み、
じわりと痛みが走る。
(……俺が……耐えればいい……)
(……あなたが……生きられるなら……)
それが、
夫としての選択であり、
護衛としての本分であり、
――愛してしまった者の、敗北だった。
⸻
ふと、
一枚の紙が目に留まる。
筆圧が、少しだけ弱い。
《煌龍国》
《シュン》
その文字を見た瞬間、
胸の奥が、さらに強く締めつけられた。
(……一人で……)
(……ここまで……)
助けも、相談も、
自分すら巻き込まずに。
――選択だけを、背負おうとしていた。
テュエルは、静かに彼女の隣に膝をつく。
眠る顔。
無防備で、
何日も飲まず食わずで
疲れ切っていて、
それでも――どこか、決意の色を残している。
(……こんな顔……)
(……俺の前で、させたくなかった……)
指先が、わずかに震えた。
触れれば、
自分の弱さが、溢れてしまいそうだった。
レイラの眉が、
ほんのわずかに、ひそめられている。
夢の中でも、
まだ考えているのだろう。
自分の身体のこと。
未来のこと。
――自分以外の男とのことを。
(……お願いです……)
(……それ以上……削らないで……)
テュエルは、触れない距離で、囁く。
「……大丈夫です」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からない。
「……俺が……耐えますから……」
外套を、もう一度整え、立ち上がる。
資料を片付けることは、しない。
――彼女の覚悟を、
勝手に隠す資格など、どこにもない。
守ると決めた。
選ばせると、決めた。
それが、
どれほど自分を削る選択かを知った上で。
テュエルは、
胸の奥が静かに崩れていく音を聞きながら、
資料室を後にした。
――外套だけを、残して。
⸻
――資料室
肩に掛けられた外套の重みで、
レイラは、ゆっくりと目を覚ました。
(……テュエル……の……外套……)
一瞬で、理解する。
――見られた。
いや。
見なくても、分かる。
散らばった付箋。
必死な走り書き。
避妊、周期、負担、副作用――
あの言葉の数々を、
テュエルが気づかないはずがない。
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
(……テュエルは……)
(……嫌に……決まっている……)
血の気が、すっと引いていく。
(……重婚だ……)
(……どう考えても……酷い……)
冷静になってしまう。
客観的に、自分を見てしまう。
(……私は……)
(……何を……しているんだ……)
夜を越えてまで。
ここまで必死に調べて――
他の者と、するために。
(……他人から見たら……)
(……破廉恥極まりない……)
呼吸が浅くなり、
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
レイラの視線が、
ふと、机の端に落ちる。
書状――
煌龍国。
リア宛。
レイラは無言でそれを掴み、
くしゃりと握り潰した。
迷いを、紙ごと潰すように。
(そう……)
(テュエルを想えば……)
(こんなこと……していいわけがない……)
そして――
ごみ箱へ、落とす。
――その時。
気配。
レイラは、顔を上げた。
扉の外。
半分だけ開いたその向こうに、
テュエルが立っている。
中へは、入らない。
……逃げる準備をした背中。
「……テュエル」
名を呼ぶと、
彼の肩が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ゆっくりと、振り返る。
そして、数歩だけ中へ入り、
レイラの次の言葉を待つ。
レイラは、息を整え、
声を作り、笑顔を作った。
「……大丈夫だ」
「……心配するな」
――優しい、嘘。
テュエルは、微かに目を伏せる。
そして。
視線が、ほんの一瞬――
ごみ箱へ、落ちた。
中にある、
握り潰された紙。
先ほどまで机にあった書状、
筆跡も、宛名も、
見なくても分かる。
(……ああ……)
胸が、締めつけられる。
(……このまま……)
(……レイラ様の嘘を……)
(……嘘のまま……通したら……)
きっと、
煌龍国へは、行かない。
きっと、
俺以外の男とは――
“しない”。
……でも。
(……それで……いいわけが……ない……)
テュエルは、一歩、
レイラの前へ踏み出した。
「……嫌に……決まっているでしょう?」
あまりにも、自然な言葉。
レイラは、息を止める。
だが――
すぐに、続く。
「……冗談です」
笑う。
――誰が見ても分かる、嘘の笑顔。
喉が、きしんだ。
「……あなたを、愛さなければよかったなんて……」
「……思ったことは、一度もありません」
静かで、逃げ場のない声。
「……そんな俺が……」
「……嫌だ、なんて……言えましょうか」
レイラの胸が、強く痛む。
「……テュエル……」
彼は、視線を伏せたまま、続けた。
(レイラ様の努力を、無駄にすることなんて……)
(俺には……できない……)
「……行きましょう」
「……煌龍国へ」
レイラの指が、震えた。
「……私は……」
「……お前が、私を……」
言葉が、震える。
「……狂おしいほど、愛してくれていることを……」
「……知っている……」
テュエルの瞳が、
わずかに、見開かれた。
レイラは、続ける。
「……だから……」
「……もし……お前が……」
外套を、胸に抱き寄せる。
「……嫌なら……」
「……他の方法も……考える……」
テュエルの呼吸が、
乱れた。
「……レイラ様」
声が、低くなる。
「……そんなことを……」
「……言わないでください……」
「……本当は…今だって……嫌です」
本音。
「……シャガルと……」
「……夜を共にしていると想像するだけで……」
喉が、詰まる。
それでも、言葉を止めない。
「……痛い」
「……苦しい」
「……辛い」
拳が、わずかに握られる。
「……あなたが……」
「……他の男に触れられる……」
声が、僅かに掠れた。
「……それだけで……」
「……おかしくなりそうだ」
沈黙。
そして。
「……それなのに……」
「……最後まで、なんて……」
小さく、首を振る。
「……耐えられない」
――それでも。
顔を上げる。
「……でも……」
「……あなたが壊れるのは……」
低く、確かな声。
「……それは……」
「……もっと……耐えられない」
「……これは……俺の選択です」
逃げない声。
「……あなたを守るためなら……」
「……地獄でも……進みます」
レイラは、外套を強く握りしめた。
(……この人は……)
(……嫌でも……選ぶ……)
だからこそ。
レイラは、逃げずに言った。
「……テュエル」
真っ直ぐ、見る。
「……お前の覚悟も……」
「……その想いも……」
一拍。
「……絶対に……無駄にしない」
震えを、押し殺す。
「……私を選んでくれたこと……」
「……後悔など……させない」
声が、少しだけ強くなる。
「……私は……」
「……必ず……幸せになる」
そして――
自分を縛るように、言い切った。
「……二人まとめて……」
「……私が……責任を取る」
テュエルの呼吸が、乱れる。
「……レイラ、様……」
レイラは、視線を逸らさない。
「……逃げない」
「……誤魔化さない」
静かで、重い声。
「……だから……」
「……一緒に……進め」
「私は…お前を……
……離すつもりはない…」
テュエルは目を見開いた
そして長い沈黙のあと――
テュエルは、ゆっくりと膝をついた。
護衛としての姿勢。
だが、その声は――
壊れそうだった。
「……はい」
小さく。
「……最後まで……」
「……あなたの、後ろに……います」
「ボク……。
”俺”も離れる気はありません……。」
笑う。
痛みを、すべて飲み込んだ笑顔。
そして覚悟を決めた顔。
レイラは、その姿を、
深く、胸に刻んだ。
(……絶対に……)
(……この選択を……)
(……間違いには……しない……)
外套を、しっかりと肩に掛け直し、
立ち上がる。
「……行こう、テュエル」
煌龍国へ。
これは、逃げではない。
――覚悟を背負って進む旅だ。




