「触れたい」と「守りたい」の狭間で、彼女は答えを探し始めた
シャガルの気配は、あまりにも遠かった。
妖力は沈み、
レイラの鋭敏な感覚でも、輪郭すら掴めないほどに弱っている。
――生きてはいる。
けれど、消えかけの灯のようだった。
(……シャガル……どこにいる……)
胸の内で、何度も呼ぶ。
(なぜ、戻らない……?
もう……私の顔も、見たくないのか……?)
声にはしない。
だが、その問いは、胸の奥で何度も反響していた。
――
レイラの身体が、ではない。
心が、限界を迎えた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
まるで“心の温度”が、急速に奪われていくような感覚。
冷えきった痛みが、静かに全身を走る。
レイラは、椅子の背に手をかけたまま、
ゆっくりと膝を折った。
倒れたわけではない。
だが、精神が――崩れかけていた。
(……シャガル……)
視界が揺れる。
(……もう……戻らないのか……?)
これほど心が乱れたことは、かつてなかった。
この瞬間、
レイラははっきりと理解する。
――ああ、これが。
――“恋に落ちた”ということなのだ、と。
その時。
屋根の上から、
吹き荒れるような妖力の名残が、ふっと揺らいだ。
とても弱い。
今にも消えそうなほど。
けれど――
(……シャガルだ)
間違えようがなかった。
――
屋根の上
屋根へ上がった瞬間、
レイラは息を呑んだ。
シャガルは、壁にもたれかかるように座り込んでいた。
乱れた髪。
深く落ちた目の下の影。
あれほど誇り高く、揺るがぬ妖王が、
肩を震わせている。
シャガルは、レイラを見ると――
安堵とも、絶望ともつかぬ表情で、かすかに笑った。
「……来るな」
掠れた声。
「今の余は……
お前に触れる資格がない……」
まるで、長く泣き続けた後のような声だった。
レイラは一歩、踏み出す。
「……シャガル」
喉が、ひりつく。
「私が……嫌で……
離れていたのか……?」
その問いは弱々しかったが、
シャガルの呼吸を、確かに止めた。
「違う!!」
声が、弾ける。
「違うのだ、レイラ……っ!」
シャガルは、自分で自分を抱きしめるように胸を押さえ、
震えながら、言葉を吐き出す。
「愛している……
愛しているのだ……」
声が、砕ける。
「お前を泣かせるつもりなど、毛頭ない……
なのに余は……
余は……」
息が乱れる。
「お前を泣かせ、
触れ、
……抱こうとした……!」
その姿に、レイラの胸が締めつけられた。
あの傲慢で、強く、揺るがぬシャガルが――
罪悪感だけで、ここまで壊れかけている。
レイラは、そっと近づき、
彼の頬に触れた。
ビクリ、と。
シャガルの身体が震える。
「……私は、シャガル、お前の妻だ」
静かに、言う。
「触れられて……嬉しい」
「あの夜だけじゃない、いつだって……
お前からもらう熱……気持ち……
全てが嬉しい……」
シャガルの瞳が、揺れる。
「泣いたのは……
お前が嫌だったからじゃない」
レイラは、言葉を選ぶように続ける。
「お前が……ずっと我慢しているのを知っていた。
その想いを……折りたくなかった……
それだけだ」
シャガルは、レイラの手を強く握りしめた。
その震えは、
隠しようもなく、弱々しかった。
――
「……レイラ」
シャガルは、苦しそうに息を吐く。
「このままでは、余は……
いつか、お前を抱いてしまう……」
一拍。
「それは……
お前の命を奪うかもしれぬ行為だ」
覚悟を決めた声だった。
「……余は……
お前のそばから、距離を置くべきかもしれぬ――」
その言葉が、
レイラの胸を鋭く刺す。
「……そんなのは……」
震える声。
「……私は、嫌だ…」
シャガル
「レイラ……」
………………
レイラは、一瞬、迷った。
だが――
この沈黙に耐えられなかった。
「……もし……子ができても……」
言ってはいけないと、分かっていた。
「……堕ろす、から……」
その瞬間。
シャガルの妖力が、爆ぜた。
「ふざけるなッッッ!!!!」
低く、震える怒声。
「お前の身体に、そんな負荷を与えるくらいなら――
余は、自ら手首を切り落とす!!
去勢してでも!!
お前に触れぬようにするわ!!!」
あまりにも激しい怒り。
妖の王が、ここまで感情を露わにする姿を、
レイラは初めて見た。
「……シャガル……」
息を呑む。
「そんなに……
そんなに……私を……?」
シャガルは、歯を食いしばり、
絞り出すように言う。
「どれほど、大切にしていると思っておる……
お前に、傷など……
死んでも、つけたくない……」
声が、震える。
「余のほうが……死ぬ……」
⸻
(あぁ……なんて……愛しいんだ……)
レイラは、そっとシャガルを抱きしめた。
それは、
いつもの彼女より、ほんの少しだけ――
甘く、温かい抱擁だった。
「……私は」
囁く。
「お前が夫で、幸せだ」
シャガルの肩が、わずかに震える。
「触れられると……嬉しい。
傍にいてほしい。
離れないでくれ」
レイラは、静かに続けた。
「一緒に……
解決策を探そう、シャガル」
シャガルは、レイラの肩に額を押しつけ、
声にならない吐息を零す。
「……レイラ……
……愛しい……
……愛しいのだ……」
かすれた声。
「……お前が……
余を……救ってくれるのか……?」
その夜。
二人は、屋根の上で、
ただ抱き合ったまま、夜を越した。
抱き合うだけ――
けれど、それは。
抱くよりも、深い夜だった。
――――
屋根の上での夜が明ける頃、
二人はようやく言葉を失ったまま、互いを抱きしめていた。
だが――
シャガルは、名残を断ち切るようにレイラの肩からそっと手を離した。
「……レイラ。
今は……これ以上、近くにいるべきではない」
低く、苦しげな声。
「夜は別室だ。
しばらくは……一緒に眠ってはならぬ」
それは拒絶ではない。
むしろ、必死な自制だった。
レイラは一瞬だけ目を伏せ、
何も言わずに頷いた。
そして――
自室へと戻された。
⸻
静かな部屋。
一人きり。
寝台へ腰を下ろしたまま、
レイラは天井を見つめる。
(……やはり、このままでは駄目だ)
想いだけでは、どうにもならない。
愛しているからこそ、現実に向き合わねばならない。
(何か……解決策は……)
頭をよぎる言葉。
――堕胎。
だが、すぐに否定する。
(……それを口にしたら、
シャガルは……怒る)
怒るだけではない。
きっと、壊れる。
では、他に。
その時――
ふと、一つの言葉が浮かんだ。
(……避妊……薬……?)
レイラは、はっと目を見開く。
⸻
次の瞬間には、
夜着のまま部屋を飛び出していた。
向かう先は、資料室。
医学書。
薬草学。
古い治療記録。
灯りをつけ、片っ端から頁を繰る。
避妊に用いられる薬草。
周期を調整する処方。
身体への負担。
副作用。
――一切、妥協しない。
夜が更け、
窓の外が白み始めても、
レイラの手は止まらなかった。
そして、
比較的安全と思われる方法に辿り着いた時――
レイラは、ふと動きを止めた。
(……待て)
視線が宙を泳ぎ、
次の瞬間、はっきりとした光が宿る。
「……そうだ」
レイラは筆を取った。
⸻
書状は短く、要点だけ。
宛先は――
煌龍国。
かつて共に時を過ごした友、リアへ。
――――
書き終えると、
レイラは筆を置いた。
胸の奥に、
わずかな安堵が灯る。
(……これでいい)
それ以上、考える力は残っていなかった。
椅子に深くもたれ、
目を閉じる。
資料室に、
朝の静けさが満ちていく。
蝋燭の火が、ひとつ、またひとつ消え、
書物と紙の匂いだけが残る。
レイラは、
気づかぬまま、眠りに落ちた。
――その努力を、
まだ誰も知らないまま。




