罪と誤解のまま離れた二人、それでも心は同じ名を呼んでいた
あの夜。
シャガルは、飛び起きた瞬間から、
レイラの泣き声が耳に焼き付いたままだった。
まるで悪鬼に追われるように、
城の廊下を駆け抜ける。
息が切れるのも構わず、
屋根へと跳び上がり、夜風の中で膝をついた。
「……余は……」
声が、うまく出ない。
「……なにを、した……?」
手が震えて、止まらなかった。
抱きたかった。
触れたかった。
ただ、愛したかった。
それだけだったはずなのに。
眠っていた“自分”が、
レイラを傷つけかけた。
その事実が、
どんな刃よりも深く、妖の心臓を抉る。
獣よりも強いはずの心が、
今は脆く、砕けそうだった。
閉じた瞼の裏に、
あの涙が浮かぶ。
怯えた声。
必死な叫び。
忘れようとしても、離れない。
夜が明けても、
シャガルは屋根の上から降りられなかった。
風に吹かれながら、目を閉じるたび、
あの声が蘇る。
「……レイラ……」
呼んでも、届かない。
――会う資格など、ない。
そう思ってしまう。
だから、姿を消した。
逃げるように、城から距離を取り、
食事も喉を通らない。
ただ、夜の風に身を晒し、
冷え切った身体で、罪を噛みしめる。
“愛しているのに、傷つけるのか?”
その問いだけが、
胸の奥に、重く残り続けていた。
⸻
シャガルがいなくなった、その夜から。
レイラは、彼の寝室に残ったまま、
冷たい敷き布を握りしめ、じっと座っていた。
動けなかった。
枕に残る、微かな匂いに顔を埋めるたび、
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……止めなければ……」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「……きっと……後悔させていた……」
そう。
あのままなら、
シャガルは、自分を壊していた。
そう思っている。
思っているのに。
――別の考えが、心をよぎる。
(私は……拒絶、したのだろうか……)
(……受け入れるべき、だったのだろうか……)
愛している。
大切に思っている。
だからこそ、
歯止めを失ってほしくなかった。
シャガルが積み上げてきた“我慢”を、
自分の手で壊したくなかった。
それでも――
泣いて、拒んだ、あの瞬間を思い出すたび、
胸が、引き裂かれる。
「……シャガル……」
声が、空気に溶ける。
「……戻ってこないのか……」
三日目――
唇は青ざめ、
目は赤く腫れ、
テュエルでさえ、触れるのを躊躇うほど、弱っていた。
身体より先に、
心が、壊れていく。
中身が、空っぽになっていく。
会いたい。
ただ、声が聞きたい。
それだけなのに。
(……今、行けば……)
(……シャガルは、もっと苦しむ……)
そう分かっているから、
行けない。
だから、待つ。
ただ、座って。
眠れず、食べられず、
シャガルと同じように、苦しみながら。
⸻
三日目の夜
城の空気が、
張り詰めていた。
レイラは、椅子から力なく立ち上がる。
足元が、揺れる。
それでも、一歩、前へ。
歩きながら、
ぽつりと、自分に言う。
「……会いたい……」
それは、
願いであり、
泣き声だった。
同じ頃。
屋根の上で、
シャガルは目を閉じていた。
胸にある願いは、ひとつだけ。
「……レイラ……」
掠れた声で、呟く。
「……お前に……会いたい……」
二人とも、
もう、限界だった。
――――――
シャガルが姿を消して三日目。
城は、静かすぎた。
レイラが笑わないだけで、
こんなにも空気は冷えるのかと――
テュエルは思い知らされていた。
最初は、
「そのうち帰ってくるさ」
そう、自分に言い聞かせていた。
だが二日目の朝。
レイラは食事に手をつけられず、
水さえ喉を通らず、
ただ膝の上で拳を握りしめたまま、
ぼんやりと宙を見つめていた。
その姿を見た瞬間――
テュエルの心は、本当に軋んだ。
何度も、口が開きかけた。
「大丈夫です」
「そばにいます」
そう言いたかった。
けれど、
レイラの横顔を見た瞬間、言葉は喉で止まった。
彼女の目は――
シャガルを追っていた。
その時、テュエルは悟った。
――この痛みは、自分では癒せない。
触れれば、逆に壊してしまう。
それが分かってしまったから、
彼の手は、レイラへと伸びなかった。
夜。
レイラは眠れず、
目の下には濃い影が落ち、
痩せて、指先まで冷たく、
まるで魂が半分、抜け落ちてしまったようだった。
テュエルは自室で、
レイラの呼吸音に耳を澄ませる夜を過ごした。
もし泣き出したら。
もし倒れたら。
その時は、すぐに駆けつけるつもりだった。
――けれど本当は、
その想像をするたび、胸が痛んだ。
“自分では救えない相手を、
これ以上愛してどうするんだ。”
何度そう考えても、
それでも胸は痛むし、
レイラの名を、呼びたくなった。
食事は、喉を通らなくなった。
眠れば、レイラの泣き顔が夢に出た。
目を覚ますたび、
「シャガルが戻れば、すべて終わるんだ」
そう考えてしまう自分に、腹が立った。
悔しい。
苦しい。
それでも――
レイラが求めているのは、シャガルだと知っている。
だから、触れなかった。
抱きしめなかった。
ただ、
壊れそうなレイラの命の火が、
消えてしまわないように――
見守ることしか、できなかった。
テュエルは、
シャガルに憤り、
シャガルを羨み、
シャガルを許し、
そして最後に、祈った。
「レイラ様を奪ってもいい。
だから……戻ってきてやってくれ」
そう呟いた夜、
テュエルの手は、小刻みに震えていた。




