第八話 覚えていない
どこまでも続く長い廊下をアシュフォードは大股で歩いていた。
馬車を呼ぶために、ウルを一人中庭で待たせていたら、忽然と姿を消していた。
心臓が止まりそうになり、ウルを探しに行こうとすると、暗闇の中からシルヴィアの従者、ジェシカが現れた。
無表情のジェシカから、ウルはシルヴィアと共にいると伝えられる。
嫌な予感しかしなかったため居場所を問いただすと、ジェシカはあっさり口を割った。
シルヴィアの手のひらの上で踊らされていることに腹を立てながらも、教えられた場所へすぐに向かう。
その道中も苛立ちは収まらず、頭の中で終始ウルに悪態をついていた。
あの小娘は何故言われた通りに大人しくしていられない。
暗闇で顔はよく見えなかったが、アシュフォードが絶対にその場から動くなと何度も念押しし、ウルが小さく頷くのを確認したから離れたというのに、何故いない。
しかも、一度ならず二度もシルヴィアに連れ去られている。
無防備にも程がある。
あんなにも無防備のくせに、人を煽るような行為を平然とやってのけるからますますたちが悪い。
そこで中庭での出来事が脳裏をよぎり、アシュフォードは足を止めた。
重ねた唇の感触と、小さな身体を抱き寄せた時の感覚が鮮明に思い起こされる。
意識した途端、その時の余韻に浸りそうになるも、アシュフォードはそれに抗うように奥歯を強く噛み締める。
恋人なのだから、唇を重ねるぐらいどうってことはない。
それにあの時は、ウルが求めてきたから応えてやったまでだ。
求められたことに少々動揺してしまったが、決してアシュフォードがウルを欲していたわけではない。
あんな小娘に、アシュフォードが欲情するなんてありえないのだから。
ひたすら己にウルとの口づけなど大したことないと言い聞かせ続けるも、アシュフォードの胸の高鳴りは中々収まらなかった。
必死に先ほどの出来事を頭から追い払い、アシュフォードはウルへの怒りで平常心を保とうとする。
最近、ウルが好き勝手に動き過ぎている。
自分の立場を考えて行動すべきだと今一度説き伏せるべきだ。
もう護衛ではないが、一応恋人ではあるため、少なくともまだアシュフォードには世間知らずなウルを教育する義務があるはずだ。
ようやく心が凪いできたアシュフォードが歩みを進める。
ウルがいるであろう部屋の扉の前に着くと、中からシルヴィアの高笑いが聞こえてきた。
その声で、ドアノブに手を掛けるのを躊躇ってしまうアシュフォードだったが、これ以上シルヴィアの好きにさせたくなかった。
帝国の第一皇女の部屋であろうと、勝手にウルを連れ出した相手へ配慮する必要はない。
そう判断したアシュフォードは、扉を叩くことなくそのまま押し開けた。
扉を開けると、目を疑いたくなる光景が広がっていた。
部屋の中央に置いてあるカウチソファに足を伸ばし、ゆったりと座っているシルヴィアの周りでウルが笑い声を上げ、楽しそうに回っている。
床には瓶が散乱している。
アシュフォードは足元に転がっていた瓶を拾い、ラベルを確認する。
度数の低い果実酒だとわかった瞬間、アシュフォードは目の前の状況を理解した。
「あら、やっと来たの。ノックもせずに入ってくるなんて、無粋な男ね」
入り口で立ち竦んでいるアシュフォードの存在に気付いたシルヴィアは持っていたワイングラスをソファ脇の小卓に置いた。
「ウル、残念だけどお迎えが来てしまったようだわ」
シルヴィアの周りを回り続けていたウルが、動きを止める。
淡い水色の瞳がアシュフォードの姿を捉える。
すると、嬉しさを隠しきれないのか、ウルが花咲くように笑った。
ようやく静まりかけていた胸の高鳴りが、また一気にぶり返した。
「アシュだーーー!!」
満面の笑みのまま駆け寄ってきたウルは迷うことなくアシュフォードに抱きついてくる。
密着した身体の温もりを意識し、僅かに身を強張らせた。
「成人したっていうのに、お酒を飲んだことがないって言うんだもの。いい機会だから、とびきり良いものを飲ませてあげたわ。感謝しなさい」
愉悦に浸りきった笑みを見せてくるシルヴィアにアシュフォードが唇を強く噛む。
頼んでもないことを勝手に実行した上に、感謝まで要求するとはあまりにも身勝手すぎる。
シルヴィアにはウルを公の場に連れ出したことを含め言ってやりたい文句が山ほどある。
しかし、今のアシュフォードはそれどころではなかったため、それらを口にすることは叶わなかった。
「うぇへへへー、アシュがいるーー!!」
胸元に頬ずりをされ、ますます身体が強張る。
動揺を悟られぬよう、恐る恐るウルの肩に触れた。
ゆっくりと身体を引き剥がし、顔を確認する。
いつもより頬が赤く、瞳が潤んでいるウルに、アシュフォードは無意識にごくりと喉を鳴らした。
「......酔っているな」
「えーー、わかんない!!お酒、飲んだの初めてだもん!!でも、なんだかふわふわしてて、すっごい楽しい気分!!!」
人の気も知らずに無邪気に笑うウルに舌を打ちたくなったアシュフォードは身を屈める。
足取りがおぼつかないウルの腕を自身の首へと回し、背中に担ぎ上げた。
「えぇーー、もう帰るの?」
「耳元で騒ぐな、うるさい」
慣れたようにアシュフォードに身体を預け、耳元できゃんきゃん騒ぐウルに耳を塞ぎたくなる。
ウルを背中におぶったアシュフォードが立ち上がり、そのまま部屋から出ようとする。
「シルヴィア様ー、まったねー!」
「ええ、とても楽しかったわ、ウル。また今度、ゆっくりお茶でもしましょう」
後ろでウルとシルヴィアが別れの挨拶をしているが、アシュフォードは気にせず歩みを進める。
「アシュフォード」
名前を呼ばれたので、一応立ち止まる。
しかし、振り向きはしない。
「あなたも、十分に気をつけるようにね。夜はまだ、長いのだから」
愉快そうに声を弾ませて発せられたその言葉に神経が逆立ち、アシュフォードは何も答えず、部屋を後にした。
背中にウルの重みを抱え、来た道を戻っていく。
先ほどまであれほど騒がしかったというのに、背中で揺られて眠くなったのか、それともはしゃぎ疲れたのか、ウルは耳元で寝息を立てていた。
やはり、小娘は小娘だ。
昔からウルは、アシュフォードにおぶられながらよく眠ってしまっていた。
戦闘力はまるでなかったが、ウルは戦闘時に必要不可欠な存在だった。
ただそこに立っているだけでも魔力を激しく消耗するのか、戦闘が終わると、いつも眠そうに目を擦っていた。
その度にアシュフォードが背負って、ウルを連れ帰っていた。
聞き慣れた寝息に耳を傾けていると、逆立っていた神経が不思議と落ち着いてくる。
「んっ...」
体勢を整えるために背負い直すと、その反動でウルが起きる気配がした。
寝ぼけているのか顔を上げて、暫くぼんやりしたあと、またすぐにアシュフォードの首元に顔を埋める。
首元でもぞもぞと動かれ、こそばゆかったが不思議と不愉快ではなかった。
「......アシュ」
ウルの唇から漏れ出た言葉に、足を止める。
寝言で自分の名前が出たことに頬が緩みそうになるも、アシュフォードは唇を強く噛む。
何事もなかったように足を進めようとするも、ウルが耳元でまた小さく囁いた。
「...これからも、アシュと、ずっと一緒にいられたらいいな......」
消え入りそうな声で寝言のように呟かれたその言葉に、息が止まる。
首に回っていたウルの腕に僅かに力が込められた気がした。
何も考えられなくなったアシュフォードは暫くその場に立ち尽くす。
廊下の窓を揺らす夜風の音で、やっと我に返る。
...........ただの寝言だ。深い意味はないはずだ。
こんな小娘の戯言、真剣に取り合う必要などない。
そう結論づけたアシュフォードが再び歩みを進める。
しかし、先ほどのウルの寝言が、頭から離れようとしない。
どうしても忘れることが出来ないその言葉がいつまでもアシュフォードの胸の内で燻り続けていた。
・
馬車はエヴァレット侯爵家別邸の敷地内で止まった。
隣では、未だにウルがアシュフォードの肩に頭を預け、眠っている。
孤児院に連れ帰ってもよかったのだが、この状態のウルを、孤児院の人間に任せるのは不安が残る。
したがって、不本意だが今晩だけエヴァレット家でウルを預かることにした。
もちろん、ウルのことは使用人たちに任せる予定でアシュフォードは彼女に指一本たりとも触れるつもりはない。
馬車が揺れるたびにウルの身体が四方八方へ動くので、仕方なく肩を貸してやっているまでだ。
「おい、着いたぞ。起きろ」
声をかけるも、ウルからの反応はない。
肩を少し動かしてみるも、熟睡しているのか起きる気配が見られない。
「おい、起きろ」
仕方ないので肩を揺らすと、瞼が微かに揺れる。
ゆっくりと瞼が開かれ、淡い水色の瞳が現れる。
寝起きで頭が回らないのか、ぼんやりと辺りを見渡している。
不意に視線がアシュフォードとぶつかると、ウルが反射的ににこりと笑う。
自分もだいぶ疲れているのか、それだけのことでアシュフォードの胸は高鳴った。
「アシュ...」
「.........なんだ」
何を言われても動揺してはならないとアシュフォードが身構える。
しかし、ウルの口から出たのはまったく想像していなかった言葉だった。
「......気持ち、悪い」
その瞬間、全ての雑念が吹き飛んだアシュフォードはすぐにウルの体を抱え込んだ。
馬車の扉を荒々しく足で開け、ウルを横抱きで抱え、建物内に入る。
早足で廊下を進むも、ウルが気持ち悪そうに口元を手で押さえているため、これ以上速度を上げることができない。
いったいどれだけ飲まされたのかとシルヴィアの部屋の惨状を思い出したアシュフォードは苛立ちを募らせていく。
迷わず自室まで辿り着くと、部屋に隣接する浴室へと直行する。
風呂場に足を踏み入れる直前、すでに限界だったウルは、こみ上げてきたものを着ていたドレスの上にすべて戻してしまった。
「......ふぇ...」
吐いてしまったことへの羞恥心なのか、ウルはメソメソと泣き始めてしまった。
そんなウルを風呂場の床に座らせ、アシュフォードが浴槽に張られている湯に手を入れる。
まだ十分に温まっていなかったが、頭から被るには丁度いいと判断し、水桶で汲み上げる。
そのままぬるま湯をウルの頭から浴びせた。
突然のことで驚いたように顔を上げようとするウルにぬるま湯をかけ続ける。
ようやく汚れがすべて流れたところで、アシュフォードの手が止まった。
抵抗する間もなくぬるま湯を浴びせ続けられたウルはその場に手をつき、呆然としていた。
「...少しは、ましになったか?」
ウルが小さく頷く。
ようやく張り詰めていた気を緩め、アシュフォードは深く息を吐いた。
「使用人を呼んでくるから、少し待っていろ」
風呂場にウルを残し、背中を向ける。
「アシュ...!!」
後ろから、弱々しい声で呼び止められる。
「ありがとう...」
今にも消えてしまいそうなか細い声に、拳を握りしめる。
「......いつものことだ」
吐き捨てるように言い残し、アシュフォードは浴室を後にした。
使用人の一人にウルの身支度を命じ、自室の椅子に深く腰掛ける。
扉を叩く音がしたので、入室を許可するとアシュフォードの従者が入ってきた。
「先ほど連れてきた小娘に客室を用意しろ」
そう命じると、従者が面食らったように瞬きをする。
「.........なんだ?」
「いえ、同じ部屋で休まれないのですね」
その言葉で何を言いたいのか理解したアシュフォードは目を細め、従者を睨みつける。
「俺が、酔い潰れた小娘と同衾するために連れ帰ったと...?」
殺気立った低い声に従者は慌てて首を振り、一礼して部屋から出て行った。
くだらないことで気が立ってしまったアシュフォードは足を組んで、大きく息を吐いた。
少なくとも、酔いが回ったウルに手を出すほど、アシュフォードは女に飢えてはいない。
それに今夜は予定外のことが起こりすぎて、流石にアシュフォードも疲れていた。
浴室が使えるようになるまで、仮眠でもしようと椅子に腰掛けたまま、瞼を閉じる。
意識が朦朧としていく中、ウルの小さな声だけがはっきりと聞こえてくる。
『...これからも、アシュと、ずっと一緒にいられたらいいな......』
耳元にかかる吐息や、背中越しの体温が鮮明に思い出される。
そのせいでなかなか寝つけず、アシュフォードは結局、ウルが浴室から出てくるまで起きていた。
そして、自身も体を清め、ベッドで眠りにつこうとするも、忌々しいウルの言葉に苛まれ続けた。
最悪なことに、朝までまったく眠れなかったアシュフォードとは対照的に、ぐっすり眠ったウルは、翌朝には酒を口にしてからの出来事を何一つ覚えていなかった。




