第七話 忘れろ
腕を掴まれながら歩かされ、大きな背中を眺めていると、ウルは祝賀会のことを思い出す。
あの時も、こんな風に会場から連れ出されたのだった。
しかし、今回はアシュの手は血では汚れていないので、ウルはあまり切羽詰まってはいなかった。
強いて言うなら、今回も何故アシュに連れていかれているのか、ウルにはわからない。
前回は社交ダンスの場でケインと回転していたのを注意されたと思ったら、恋人になれと言われた。
でも、今日はウルは何もしていない。
シルヴィアに無理やり連れてこられ、身支度を整えられ、わけもわからないままあの会場に足を踏み入れていた。
知らない人ばかりで、向けられてくる視線も怖かった。
慣れたように堂々とその中を歩くシルヴィアの後ろに隠れていると、前方にアシュの姿が見えた瞬間、張り詰めていた肩の力が抜けた。
アシュに話しかけたかったのだが、シルヴィアと、アシュの隣にいた男性が話し始めてしまった。
なんかアシュからの視線がいつもより強いなと感じてはいた。
だから、怒られないように大人しくしていたのに、気付いたら体を引き寄せられ、その場から連れ去られていたのだ。
いったい何に対して怒られるのだろうと呑気に後をついていくと、そのまま建物の外まで連れてこられた。
外は真っ暗で、所々に外灯はあるけど、殆ど辺りが見えない。
草木の香りがするので中庭だろうかと、昼間なら美しく見えるであろう庭木に手を伸ばして触れた。
夜露に濡れた葉がウルの指先を濡らす。
そういえば薄着のドレスを着ていたことを思い出し、今更ながら寒さを感じたウルは、自由に動かせる左手で引っ張られている右腕を小さく擦った。
そこでようやく大きな背中が立ち止まり、ウルの手首を離す。
ずっと掴まれていたのに、痛みは感じられなかった。
「......何故、あの場所にいた」
振り向かないままアシュは低い声でウルを問いただす。
「シルヴィア様に連れてこられたから」
特に隠し立てる必要もないので、ウルは正直に答えた。
「...抵抗はしなかったのか」
「したけど、ジェシカさん、力強かったから」
「途中で隙を見て、逃げ出そうとは思わなかったのか」
「馬車で連れてこられたし、シルヴィア様悪い人じゃなさそうだったし...」
冷たい夜風がウルの肌を撫でる。
寒さに身震いしたウルは、自分の身体を抱くように両腕を擦った。
アシュが舌打ちした音が聞こえてきた。
「あの性悪めが...」
小さい声で何か呟いたようだけど、夜風に揺れる草木の音で掻き消され、よく聞こえなかった。
「お前は昔から危機意識が低すぎる。もっと自覚を持って、行動するべきだ」
そこでやっとアシュがウルへと振り向く。
苛ついたように眉根を寄せ、鋭い眼差しを向けてくる。
しかし、寒さに震えながら両腕を擦り続けるウルの姿を見たアシュは一瞬だけ目を細め、さらに苛立ったように舌を打った。
おもむろに自身が着ていた礼装用の上着を脱ぐと、アシュは乱暴にウルの頭へと被せる。
突然、前が見えなくなり、ウルが慌てて顔を出すと、不機嫌な顔で腕を組んでいるアシュと目が合った。
「...体調を崩されると厄介だ、着てろ」
「あ、ありがとう...」
大きすぎる上着に腕を通すと、やはりウルにはブカブカで、腕を伸ばしても袖口から指先が出ることはなかった。
さっきまでアシュが着ていたからなのか、上着から微かな温度と匂いを感じられ、思わず頬が緩んでしまう。
「...なにが、おかしい」
「んー?なんか、アシュに包まれてるみたいだなって」
思ったことを口にすると、アシュの表情がますます険しくなっていく。
組んでいた腕をいっそうきつく胸元へ引き寄せると、アシュはウルから顔を背けた。
「...馬鹿馬鹿しい。そんなんだから付け込まれ、面倒なことに巻き込まれてきたんだろうが。お前はいっつもそうだっただろう」
いつもの説教じみた口調が始まってしまったアシュを細目でウルが見つめる。
頭上から降ってくる長々とした説教を聞き流しながら、ウルは先ほど衣装室でシルヴィアに言われたことを思い出していた。
『もし、アシュフォードがあなたを連れて、どこかで二人きりになったら、口付けでもしてみなさい。面白いものが見れるわよ』
面白いものとは、なんだろうか。
そもそもアシュと恋人になってから、一度もキスなんかしたことない。
キスなんてしたら、今までの比じゃないぐらい顔を真っ赤にさせて怒られるかもしれない。
でも、ウルの好奇心がそれはそれで見てみたいかもと胸の中で疼いてしまった。
終始無表情もしくは不機嫌そうに顔を顰めているので、新たなアシュを見られるなら怒られるぐらいどうってことはない。
むしろ二年以上の付き合いで、すでにアシュに怒られることに耐性がついてしまったウルは今更そんなことを恐れてはいなかった。
問題はどうやってアシュに口付けするかだ。
ウルとアシュはかなりの体格差がある。
低身長なウルは背伸びしても、高身長のアシュの顎ぐらいまでしか届かない。
頑張って飛んだら、運良く当たらないこともないが、確率が低すぎる。
よし、ここはアシュに屈んでもらおう。
「いたたた...」
説教の途中だったが、ウルはわざとらしく声を上げ、その場にしゃがみ込む。
「...どうした?」
さすがに露骨すぎるかなと心配したが、アシュが説教を中断したので、ウルは内心安堵する。
「な、なんか足が痛くて...慣れない靴だからかな...」
実際、普段履き慣れないヒールで結構な距離を歩いたせいで若干靴擦れはしている。
でも、討伐時代に歩き過ぎて足の裏に出来た血豆が潰れてしまった時の激痛に比べたら大したことはない。
あの時も、泣きながらアシュにおんぶされて運んでもらったな。
「...まったく、お前というやつは...」
懐かしい記憶を思い出していると、アシュが呆れたように大きくため息を吐く。
やはり、靴擦れぐらいで大袈裟過ぎただろうか。
「......見せてみろ」
アシュがウルの足元を確かめようと、身を屈める。
待ってましたと言わんばかりに立ち上がったウルは近付いてくるアシュの唇に軽く触れる程度のキスをした。
初めてのキスだったので少し小っ恥ずかしかったが、アシュがどんな反応をするのか気になり、ウルはすぐに彼の顔を見上げた。
珍しく真紅の瞳を見開かせているアシュは何が起こったのかわかっていないのか、身を屈めたままの体勢で固まっている。
あまり見ない反応だなと、ウルはまじまじとアシュの顔を見つめる。
少しして、我に返ったアシュが目を細め、射殺さんばかりに睨んできた。
「......何のつもりだ」
感情を押し殺したような低い声にウルはどう答えようか少し悩んだ。
素直にアシュがどんな反応をするのか見たかったと言ったら、普通に怒られるのは目に見えている。
しかし、それ以外の反応を見てみたかったので、ウルは小さく首を傾げる。
「......恋人、だから?」
尤もらしいことを言って、アシュを見上げると、小さく息を呑む音が聞こえた。
「.........そうか」
絞り出すように出てきた声は少し掠れていた。
吸い込まれるような真紅の瞳に見据えられ、胸が高鳴った。
次の瞬間、強く体を抱き寄せられ、アシュとの距離が急速に縮まる。
何が起きたのか理解する間もなく、噛みつくように唇を塞がれた。
「んっ...」
咄嗟の口づけに、ウルが無意識にアシュの服を掴む。
すると、ウルの小さな体を抱くアシュの腕にいっそう力がこもり、二人の体が隙間なく密着する。
それに伴うように口づけも深いものへとなっていく。
ただ求められるがまま、ウルはアシュからの口づけを受け入れる。
何度も角度を変えられ、貪るような接吻にウルは何も考えられなくなっていた。
やっと唇が離れても、息は絶え絶えで、意識も朦朧としていた。
肩で息をして、ぼんやりしていると、真紅の瞳と目が合った。
燃えるような熱が籠もったその瞳に、ウルの鼓動が大きく跳ねる。
「......アシュ」
息をするのもやっとなウルの口から、小さな声が漏れる。
それに微かに体を震わせたアシュフォードは、彼女を包み込むように抱き寄せる。
さっきまでの激しい抱擁とは違い、まるで壊れものに触れるような優しさで、ウルを抱きしめた。
まだ頭がぼーっとするウルだったが、アシュの大きな背中に腕を回した。
アシュの胸に顔を埋め、心臓の音に耳を傾ける。
鼓動が少し速い気がする。身体を包む温もりに触れていると、アシュがこんなにも近くにいることが嬉しくてたまらなかった。
硬い胸板に頬ずりをすると、アシュの体が強張る。
しかし、抱きしめる腕の力が弱まることはなく、より一層ウルを近くへと引き寄せた。
心地よさで胸がいっぱいになっていく。
いつまでもこの時間が終わらないでほしい。
そんな小さな願いがウルの中で静かに芽生える。
しばらくすると、アシュは腕の力を緩め、ひどくゆっくりとウルから離れていった。
すぐ顔を背けられたので、アシュの表情は見えなかった。
アシュの温もりを逃さないように、ウルは自分で自分を抱きしめる。
抱きしめられていた間、ずっと胸がポカポカしていた。
もう一度、抱きしめてもらえないだろうか。
「.........今のは、忘れろ」
抱擁の余韻に浸っていたウルは、一瞬何を言われているのかわからなかった。
顔を上げても、暗闇の中でそっぽを向いたアシュの表情は見えなかった。
「......どうして?」
零れ落ちた言葉が震えている。
自然とアシュの上着を掴んでいた指に力が入る。
しかし、アシュは顔を背けたまま、何も答えてくれない。
抱きしめられていた温もりが、夜風に少しずつ奪われていく。
やはり、自分はアシュにとって、一時的な恋人でしかないのだ。
孤児のウルがずっと、アシュと一緒にいることはない。
そんなの、最初からわかっていたはずだ。
わかっていたはずなのに、胸が痛む理由はウルにはまだわからなかった。




