第9話 女王の誘惑と守護の刃
生ぬるい血の匂い。
古い鉄錆の臭気。
赤黒い靄が、足元から這い上がる。
ポタリ、と落ちたはずの血の雫が、床から天井へと『逆流』していく。
部屋の重力が狂う。
中央に佇む絶世の美女。豪奢な真紅のドレス。
その裾の奥から、ギチリ、ギチリと金属が削り合う嫌な音が響く。
ハートの女王・ヴィクトリアの幻影。
『……冷たい』
女王の白蝋のような頬。
そこから血の涙がこぼれ、やはり上へ、上へと逆流していく。
『この部屋は、ひどく冷たいわ。あの方が息絶えた、あの夜と同じ』
ドレスの下の歯車が狂乱する。
鼓動の代わりに、ひどく不快なオルゴールの不協和音を撒き散らす。
ねねの足元の床板が急速に腐敗し、次の瞬間には真新しい木目へと巻き戻る。
現象そのものが、狂っている。
『進めば、腐る。動けば、失う。……だから、全部止めてあげたの』
氷のような白い手が伸びる。
『惨めな思いをして泣くのは、もうおしまい。さあ、私の美しいショーケースに入りなさい』
ねねの瞳から、光が消える。
もう、頑張らなくていい。
エリーの意地悪な嘲笑。手加減された絶望。
代わりのきかない歯車になんて、なれなかった。
ならいっそ、何も感じない人形になりたい。
「私……」
黒ずんだ指先を、ゆっくりと伸ばす。
バタンッ!!
扉が弾け飛ぶ。
オルテが飛び込んだ。
関節から白煙。高熱。
ひざまずき、自らの胸の装甲を強引にこじ開ける。
ガキッ。
取り出したのは、一枚の汚れた布切れ。
青棒の黒ずみと、強烈なベンジンの揮発臭。アトリエのゴミ箱に捨てたはずのウエス。
「……あ、なたの、匂いです」
音声機能がざらつく。必死に布を差し出す。
「壊れたものを絶対に愛し抜く。……誇り高き、時計師の匂いだ。だから、どうか」
ベンジンの匂いが、鉄錆の悪臭を切り裂く。
ねねの指先がピタリと止まる。
だが、女王の重力が部屋の空気を真空のように吸い上げる。
『さあ、おいで』
体が前へ傾く。
「寝言は墓場で喚いてろッ!!」
爆音。
銀色の閃光が、室内を獰猛に駆け抜ける。
ガキィィィンッ!!!
チェシャの双剣が、女王の幻影を真っ二つに切り裂いた。
空間が歪む。
チェシャは双剣を構え直す。金色の瞳は血走り、獣の飢餓感でギラついている。
「泥ネズミ! いつまでメソメソしてやがる!!」
喉が張り裂けんばかりの咆哮。
正義感などない。極限まで追い詰められた獣の、ただの八つ当たり。
「帽子屋が手加減しただァ? オモチャ扱いされただァ? 知るかよ!! そんなのあいつの勝手だろうが!」
双剣が風を切る。
「俺は眠れねェんだよ!! お前がその薄汚い手で、不格好に鳴らしたあの時計の音がなきゃ……俺のイカれた脳髄は、一秒たりとも休まらねェんだよ!!」
牙を剥き出しにして吠える。
「お前が人形になったら、誰が俺の耳元でチクタク鳴らすんだ!? 俺の安眠を奪う権利は、お前にもそのイカれた女王にもねェ!! さっさと息して、時計を直せェッ!!」
理不尽で、泥臭くて、底抜けに身勝手な執着。
ドクン。
ねねの心臓が、大きく跳ねる。
鼻腔を殴るベンジンの匂い。
鼓膜を震わせる獣の我がままな咆哮。
ねねは、虚空へ伸ばしかけていた自分の右腕を見た。
青棒で黒く汚れた、不格好な職人の手。
人形になれば、もう傷つかない。
だけど。
人形になったら。あの最高に性格の悪い悪魔に、一矢報いることもできない。
手加減してオモチャを与え、高みから見下ろして嗤っているあの男を、この手でわからせてやることもできない。
肺の奥まで、ベンジンの匂いを深く吸い込む。
冷え切っていた血が、ごうごうと音を立てて沸騰する。
脳の芯が、恐ろしいほどクリアに、真っ黒に染まっていく。
(同情されたまま終わるなんて、冗談じゃない)
ねねは、伸ばしかけていた自分の右手を——左手でガシッと強く掴んだ。
女王の甘い引力など知ったことか。
力任せに、その手を自分の胸元へ引き戻す。
「……お断りします」
息を吐き出し、顔を上げる。
瞳に、職人としての暴力的な熱と、ドロドロの執着がハッキリと灯る。
「あんな性格の悪い悪魔に同情されたまま、綺麗なガラクタで終わるなんて絶対に嫌」
ねねの唇が、凶暴な弧を描く。
「あの男の狂った心臓をバラバラに解体して……私がいなきゃ一秒も息ができないように、徹底的に作り変えてやるんだから」
使い捨ての歯車として摩耗していた女は、もういない。
悪魔の心臓すら自らの手で分解し、支配しようとする——いっそ清々しいほどの強欲が、そこにあった。
『……愚かな。直せばまた、すべてを失うのに』
哀しげな嘆きと共に、女王の幻影が霧散する。
消え際の真紅のドレスが、空間を軋ませた。
ねねは大きく息を吸い込む。
オルテが、差し出していた布切れをそっと下ろす。
機械の横顔に悲壮感はない。彼女が「自分のエゴ」で手を取り戻すのを見たからだ。
オルテは静かに布切れを胸の奥へ仕舞う。
「おい、強欲女! 突っ立ってる暇はねェぞ!」
チェシャが、ねねの手首を掴み上げた。
「女王のシステムがお前を完全に『害虫』と認識しやがった! 空間消去が来る!」
地響き。城全体が震動する。
壁の大理石が、端から次々と透明な『硝子』へ変換されていく。浸食の速度は異常だ。
「行くぞ!」
チェシャに引かれ、ねねは走る。
栗色の髪が風に解ける。
ガラスの割れる音。背後の空間が光の粒子となって崩れ去る。
城の最深部。行き止まり。
巨大で不気味な門。
何重もの漆黒の鎖。禍々しい結界。青白い炎。
城の絶対的な禁忌。
『開かずの扉』。
「……ここだ」
チェシャが足を止める。双剣を構え直す。
閉ざされた扉の奥。
ねねの耳に、狂おしいほどの『金属の悲鳴』が聞こえる。
激しく傷つき、叩き壊され、沈黙を強いられた気配。
「この中に、あいつのすべてがある」
ねねは生唾を飲み込み、その漆黒の扉を真っ直ぐに見据えた。
その指先はもう、怯えて震えてなどいなかった。




