第10話 開かずの扉と止まった心臓
漆黒の扉。
何重にも絡みつく錆びた鎖。
禍々しい魔力の結界が、青白い炎となって周囲を威嚇する。
地下の空気は、肺を切り裂くほどに鋭く、冷たい。
ギィィィィ……。
扉の奥から響く。金属がのたうち回るような、狂おしい悲鳴。
ねねの指先が、無意識に懐の純銀ピンセットを握りしめる。
「おい、本当に開けるのか?」
チェシャが背後で双剣を構え直す。
金色の瞳に浮かぶのは、眠気ではない。深い嫌悪と、冷徹な警告。
「あいつの『恥部』を覗くってことだぞ。ただの泥ネズミじゃ済まされねェ。女王のシステムに焼かれるか、帽子屋に溶かされるか。……どっちにしろ、ろくな死に方はしねェぞ」
「……構わない」
ねねの返答は短い。
恐怖はない。
ただ、獲物を、難解な機械を解体したくてたまらない狂信者の熱だけがそこにあった。
「私はあの人のオモチャなんでしょう? なら、中身を知る権利があるわ」
ねねは一歩踏み出す。
青白い炎が彼女の裾を焼く。ベンジンの匂いが一瞬強まり、弾けた。
結界が、彼女の異常な『執着』に反応する。
ガシャァァァン!!
鎖が砕け散る。
扉が重い音を立てて開いた。
――そこは、真空の静寂。
部屋の中央。空中に浮かぶ、巨大な鳥籠。
その中で、何重もの魔法の茨に縛り付けられた、一つの「物体」。
「……あ」
ねねは息を呑む。
それは、かつて銀色の輝きを放っていたであろう、古い懐中時計。
だが、その姿はあまりにも無惨だ。
ガラスの風防は粉々に砕け散る。
真鍮のケースは、鋭利なもので何度も、何度も叩きつけられたようにひしゃげている。
文字盤は引き裂かれ、針はくの字に曲がり、完全に沈黙する。
原型を留めないほどに叩き壊された、ただのガラクタ。
「……酷い。誰が、こんな」
ねねが歩み寄る。
時計修理師としての本能が、心臓を激しく叩く。
これほどの憎悪を持って破壊された機械を、彼女は見たことがない。
「そいつは、あいつの心臓だ」
チェシャの冷ややかな声が、地下室の壁を打つ。
「……え?」
「あいつ自身が、自分の手でブチ壊したんだよ」
ドクン。
ねねの脈が跳ねる。
自分の心臓を、自分で壊した?
「どうして……?」
「女王の『最高傑作』になるためだ」
チェシャは吐き捨てるように、窓のない壁を見据える。
「それ以上は、俺も知らねェ。……知りたきゃ、本人の口から直接聞き出せ」
静かな地下室に、その事実だけが重く沈む。
ねねは、浮遊する壊れた時計を見つめる。
魔法によって『静止』させられた破壊の瞬間。
飛び散った小さな歯車の一つ一つ。
絡まったゼンマイの、断末魔のような軋み。
エリーの、あの意地悪な微笑みが脳裏を掠める。
『これくらいポンコツな不完全さが、ちょうどいいわ』
もしかして。
あの男は、私を嘲笑っていたわけじゃなかった……?
私が直した時計の、あの不格好な「ズレ」の中に。
あの男は一体、何を求めていた?
「……ふふ」
不意に、ねねの唇が歪な弧を描く。
「おい、何笑ってんだ? 狂ったか?」
チェシャが怪訝そうに眉をひそめる。
ねねは、粉々の文字盤を指先でなぞった。
青棒で黒ずんだ指先が、冷たい銀の残骸に触れる。
「……たまらないわ。これほど難解で、これほど見事に壊れた機械。世界中のどこを探しても、きっとここにしか無い」
ねねの瞳の奥で、ドロドロとした熱が沸騰する。
可哀想? 救ってあげたい?
そんな安い感傷は、もう一ミリも残っていない。
この壊れた心臓を。
この美しくて傲慢な男の『核』を。
自分の手で、一から分解したい。
ひしゃげた歯車を、一つずつ叩き直したい。
(同情されたままの玩具で終わるなんて、絶対に嫌)
ねねは、懐から純銀のツールを取り出し、強く握りしめた。
(私が直したものでしか、もう二度と時を刻めないようにしてやる。……私がいなきゃ、一秒も狂えないようにしてやる)
支配欲ではない。
自分にしか直せない機械を求める、時計職人の極限のエゴイズム。
「ねね?」
チェシャの呼びかけに、ねねは振り返らない。
ただ、目の前の壊れた心臓を真っ直ぐに見据え、歓喜に震える唇を開いた。
「絶対に……私が、あんたの壊れ方を全部暴いてやる」




