第11話 孤独の防波堤
真空のような地下室。
ねねの狂気じみた宣言が、冷たい壁に吸い込まれる。
「……ハッ」
チェシャが短く鼻を鳴らす。
双剣を肩に担ぎ、呆れたように金色の瞳を細めた。
「マジでイカれてやがる。泥ネズミどころか、強欲なハイエナじゃねェか」
揶揄するような口調。だが、その声に敵意はない。
むしろ、腹の底から湧き上がるような獣の笑いが混じる。
ズズズンッ!!
激しい地響き。城全体が断末魔のような軋み声を上げる。
地下室の天井から、細かい硝子の破片が雨のように降り注ぐ。
女王の空間消去。その浸食が、すぐそこまで迫っている。
「……ねえ、チェシャ」
ねねは天井の崩落を気にも留めない。
視線は、結界の中に浮かぶ「壊れた懐中時計」に釘付けのまま。
「あの悪魔は、どうして心を殺さなきゃいけなかったの。女王の最高傑作になるために、どうして」
「知らねェよ。だから言ってんだろ」
チェシャは忌々しげに舌打ちをした。
崩れゆく天井——そのはるか上空にいるであろう狂った女王を、冷たい目で見据える。
「あいつの頭の中なんか分かるか。ただ、あのイカれた女王がどんな化け物かは知ってる」
双剣の刃が、チラリと青白い炎を反射する。
「あの女王はな、死んだ夫を取り戻すために世界の時間を止めた。規格外の魔法で、理屈ごと全部捻じ曲げてな。……だが、皮肉なもんだ。花も散らねェ、風も吹かねェ、誰も老いねェ世界を作ったのに……死んだ夫の命だけは、どうやっても蘇らなかった。取り戻せなかった」
冷酷なパラドックス。
時間を巻き戻しても、死者は還らない。
その絶対的な事実に、女王のシステムは致命的なエラーを起こした。
「今のあの女は、悲劇のヒロインなんかじゃねェ。夫を完全に蘇らせる方法を見つけるまで、世界中のすべてを『美しいまま冷凍保存』しようとする、ただの狂った機械だ」
チェシャが吐き捨てる。
獣の牙が、怒りに震える。
「時が進めば、老いる。腐る。愛が失われる。……だから、時を進めるお前のような存在は、あの女王にとって『愛を破壊する害虫』なんだよ。見つけ次第、空間ごと消去する」
ねねは息を呑む。
先ほどの、自室での女王の甘い誘惑。
『誰も直さなくていい。永遠の、動かない人形にしてあげる』
あれは同情ではない。世界を冷凍庫に閉じ込めるための、呪いのプロセス。
「じゃあ……」
ねねの視線が、再び壊れた心臓へと戻る。
「じゃあ、エリー様はどうして。あんな風に、女王に……嫌っているようには、見えなかったけど」
「知るかよ」
チェシャは無骨な刃を振り上げ、吐き捨てるように言った。
「あいつが本気で女王に従ってんのか、騙してんのか、それとも依存してんのか。……そんなもん、本人にしか分からねェ。知りたきゃ、直して直接聞き出せ」
ドクン。
ねねの心臓が、痛いほど跳ねる。
脳裏で。
エリーの言葉がフラッシュバックする。
『残りの人生すべての時間と、死後の魂まで担保にいただくわ』
『私に負債を返し終わるまで、勝手に死ぬことも逃げることも許さない』
あの、冷酷で理不尽な奴隷契約。
あれは本当に、ただの支配だったのか。
それとも――。
(……いや、そんなはずない)
ねねの呼吸が浅くなる。
彼は最低だ。性格が悪くて、傲慢で、人の心を平気で踏みにじる悪魔。
自分を守ってくれていた? そんな美談、信じられない。信じたくない。
あの男の本音なんて、何も見えない。
「……腹立たしい」
ねねの口から、低く、ドス黒い声が漏れる。
「あ?」
チェシャが眉をひそめる。
ねねはギリッと奥歯を噛み締めた。
あの男が何を考えていようと。どんな過去を背負っていようと。
そんなことは、もうどうでもいい。
青白い結界の中に浮かぶ、無惨に叩き壊された銀色の懐中時計。
それを見つめるねねの深緑の瞳の奥に。
可哀想な被害者を救い出そうとするヒロインの温もりではない、暴力的とも言える職人のエゴが、ジリジリと音を立てて灯り始めていた。




