第8話 愛玩動物の絶望
暗い大理石の廊下を走る。
裸足の裏から、氷のような冷たさが這い上がる。
息が切れる。肺が痛い。でも、立ち止まれない。
城中に響く時計の音が、今は耳を塞ぎたくなるほど恐ろしい。
『チクタク、チクタク』
寸分の狂いもない。0.001秒のズレもない完璧なリズム。
それは、この城を支配する悪魔の完璧さそのもの。
ねねという不器用な有機物を、底の底から嘲笑う音。
自室の重いオークの扉を押し開ける。
転がり込むように中へ入り、鍵をかける。
背中を扉に預け、ずるり、と床へ崩れ落ちた。
「あ……、あ……っ」
喉から、ひしゃげたような音が漏れる。
呼吸がうまくできない。
酸欠の金魚のように口をパクパクと開閉する。
視界がぐにゃりと歪む。
『——これくらいポンコツな不完全さが、あの泥ネズミの「おままごと」にはちょうどいいわ』
脳髄にこびりついた、エリーの嗜虐的な笑み。
冷たい真紅の瞳。
ねねが徹夜で直した時計を、魔法で一瞬にして新品に変えた眩い光。
そして。完璧になった歯車をわざと指先で弾いて作った、「不完全なズレ」。
(わざと、壊した)
その事実が、鋭い刃となってねねの心臓を何度も、何度も串刺しにする。
這うようにして、部屋の中央へ進む。
そこには、アンティークの巨大な作業台がある。
整然と並べられた、最高級の純銀ツールセット。
指先に吸い付くピンセット。極小のパーツを掴むための精密なヤットコ。最高品質のレンズを嵌め込んだルーペ。数種類に分けられた、純度100パーセントの時計油。
数時間前まで。ねねはこれを「誇り高き労働の証」だと思っていた。
ブラック企業で、100円均一のピンセットを使い潰してきた自分。そんな底辺の時計修理師に、悪魔が与えてくれた極上の居場所。
一生分の借金を返せる。私を所有してくれる。必要とされている。
そう信じて、歓喜の涙まで流した。
ねねは震える手を伸ばす。
純銀のピンセットを掴む。
……冷たい。
手に馴染む完璧な重心も、純銀の美しい輝きも。
今はただ、ひどく滑稽な「オモチャ」に見える。
チャリン、と。
ピンセットが指から滑り落ち、床で虚しい音を立てた。
(私じゃなくても、よかったんだ)
自分の両手を見下ろす。
青棒の成分が皮膚の奥まで染み込み、洗っても絶対に落ちない黒ずみ。
鼻を突く、ベンジンのキツイ揮発臭。
荒れ果てた指先。
魔法で一瞬にして、すべてを「完璧な新品」に戻せる悪魔。
時間を巻き戻せる規格外の化け物。
そんな彼にとって、こんな薄汚い人間の手作業など、最初から一秒たりとも必要なかった。
『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ』
『誰でもできる仕事だ。文句言うな』
かつての上司の怒声が蘇る。
あの頃は、使い捨ての安い歯車だった。擦り切れたら捨てられる。誰も自分を顧みない。
⋯では、今は?
この悪魔の城で、自分は何になったのか?
今は、哀れなペットだ。
捨てられてはいない。だが、歯車としてすら組み込まれていない。
悪魔が退屈しのぎに手加減して与えた『エサ』。
おままごとの道具を与えられ、一生懸命にガラクタを直す滑稽な姿。
それを、あの美しい男は高みから見下ろして嗤っていたのだ。
「私がいなきゃダメなんだって……そう、思いたかったのに」
両手で顔を覆う。
ボロボロと、大粒の涙が溢れ出す。
泥のついた頬を、熱い雫が伝って落ちる。
代わりのきかない歯車になりたかった。
誰かに、強欲に求められたかった。
自分の技術で、あの美しく難解な悪魔の心臓すらも分解し、自分がいなければ生きられないようにしてやりたかった。
それが、有栖ねねの狂気。
時計職人としての、極限のエゴイズム。
しかし。その傲慢な夢は、粉々に打ち砕かれた。
全部、滑稽な勘違いだった。
同情で飼われているだけの愛玩動物。
彼にとって必要不可欠な存在になど、一生なれない。
『砂粒の半分くらいは引いてあげてもよくってよ』
バルコニーで彼が放った言葉が蘇る。
あれは、借金取りの恐ろしい宣告ではなかった。
哀れな泥ネズミの心臓を壊さないための、底意地悪で、不器用すぎる「手加減」。
絶望が、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。
ねねの深緑の瞳から、職人としての異様な熱が急速に失われていく。
頭が芯から冷える。
もう、何も直したくない。
指先を黒く汚して、報われない努力をするのは疲れた。
どうせ、私が直さなくても、世界は完璧に回るのだから。
いっそ、このまま息を止めて。
ただの動かないガラクタになりたい。
——その時。
ふわり、と。
部屋の空気が変わる。
ねねの身体に染み付いたベンジンの匂いが、強引にかき消される。
代わりに満ちたのは、むせ返るような鉄錆。
そして。生ぬるい『血』の匂い。
「……え?」
顔を上げる。
自室の空間が、ぐにゃりと歪んでいた。
赤黒い靄が立ち込める。
虚空に、一つの巨大な影が蠢く。
『——悲しいのね。可哀想な小鳥』
頭の中に直接響く声。
ひどく甘い。
狂おしいほどの同情と哀しみを帯びた、女の声。
靄の中から姿を現す。絶世の美女。
豪奢な真紅のドレスを纏っている。
透き通るような白い肌。
王冠を戴いた気高い横顔。
だが。
真紅のドレスの裾から覗くのは、人間の肉体ではない。
ギギギ……ッ!
ガァン!
狂ったように回転する。
互いを削り合いながら、けたたましく火花を散らす。
無数の『鋼鉄の歯車と発条』。
それが、彼女の下半身を構成している。
(ハートの……女王……!?)
時間が静止したこの狂気の世界を統べる、哀しき絶対者。
ヴィクトリアの幻影。
虚空から、冷たい床にへたり込むねねを見下ろしている。
『愛する誰かのために時間を動かしても、結局は裏切られ、傷つくだけ。……違うかしら?』
女王の瞳から、一筋の血の涙がこぼれ落ちる。
それは、愛する夫を取り戻すためにすべてを捨てたのに、夫だけが蘇らなかったという絶望。
永遠に取り返しのつかない悲劇。
『時が進むから、人は老い、心は変わり、愛は失われる。……だから私が、すべてを止めてあげたのに』
ギギギ、ギィィィ。
ドレスの下の歯車が、悲鳴のような不快な摩擦音を立てる。
女王の幻影が、ねねに向かってゆっくりと両手を差し伸べる。
白く、氷のように冷たい手。
『頑張らなくていいのよ』
『悪魔の気まぐれに踊らされて、汚い手でガラクタを弄るなんて、もうやめなさい』
『誰にも必要とされないくらいなら。そんな惨めな思いをするくらいなら。……いっそ、私のショーケースの中で、永遠に美しい人形になりなさい』
甘い、甘い誘惑。
愛を失った怪物からの、狂おしいほどの同情。
永遠の静止。
それは、傷つくことを恐れる者にとって、究極の救済。
「私……」
ねねの深緑の瞳から、完全に光が消える。
もう、直さなくていい。
もう、誰かに必要とされようと、必死に足掻かなくてもいい。
見捨てられる恐怖に怯えることもない。
ここで永遠の静止に身を委ねれば、この胸を切り裂くような痛みからも解放される。
ねねは、虚ろな表情のまま。
差し伸べられた女王の幻影の手へ。
ゆっくりと、自分の黒ずんだ指先を伸ばした。




