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壊れた国のアリス ~悪魔の帽子屋と時計師  作者: 茗子


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第7話 哀しい嘘と0.001秒のズレ


深夜。



 城は、死んだような静寂に沈む。

 窓の外は永遠に変わらない赤黒い空。風の音すらない。聞こえるのは、城中の時計が刻む、狂気的なまでに完璧な秒針の音だけ。



 コン、コン。



 自室の扉が、控えめに鳴る。

 ねねはベッドから身を起こす。そっと扉を開けた。

 薄暗い廊下に立つのは、双子の自動人形。最高級の給仕服。硝子玉の瞳。



「……ねね様。夜分遅くに申し訳ありません。少し、調子が悪いのです」



 差し出された手。硝子と金属で構成された、冷たく精緻な指先。その人差し指の関節パーツが、不自然に外れかかっている。

 ねねは小さく微笑んだ。



「あ。今日はオルテね。見せて」



「……っ」



 弟機・オルテの無機質な硝子玉の瞳。それが、微かに揺れる。

 背後の暗がり。兄機のアルテが、壁に手をついて頭を抱えているのが見える。



『オルテ……お前、また自分のパーツをわざと……! 狂ったのか。マスターにバレたら、今度こそ即座に溶解炉行きだぞ……っ』



 アルテの悲痛な囁き。ねねの耳には届かない。

 ねねはオルテの冷たい手を取る。

 青棒で黒ずんだ、人間の指先。ベンジンの微かな匂い。熱を持ったその手が、外れた関節に優しく触れる。構造を読み取る。力を込め、的確な角度で押し込む。



 カチリ。



 小気味よい金属音。



「はい、直ったよ。痛くなかった?」



「……ありがとうございます。ねね様」



 オルテは手を引っ込める。背中に隠す。

 精緻な胸の奥。狂いなく設計されたはずの論理回路。そこに、強烈なエラーコードが走る。


(あたたかい)


 たったそれだけの情報が、オルテのシステムを焼き切る。理解不能なバグが急上昇する。この温もりをもっと欲しくて、夜な夜な自分の部品をわざと外し、彼女の部屋をノックしてしまう。

 狂っている。でも、直したくない。


 深く一礼し、双子が去る。


 ねねの心に、ほんの少しだけ温かい灯りがともる。



(私を、頼ってくれる……)



 チェシャの言葉が脳裏をよぎる。『お前がやってるのは、おままごとだ』。



(違う。私は必要とされている。オルテも、私に直してほしくて来てくれた。私の手作業は、無意味なんかじゃない)



 確かめなきゃ。



 ねねは部屋を出る。冷たい大理石の廊下を歩く。

 目指すは、城の最奥。帽子屋の執務室。

 自分が今日、精魂込めて直したあの懐中時計たち。彼がそれをどう扱っているか、この目で見れば、すべてがはっきりする。

 重厚なオークの扉。わずかな隙間から、温かいランプの光が漏れる。

 ダージリンと、芳醇な薔薇の香り。

 ねねは息を殺す。扉の隙間から中を覗き込んだ。

 執務机。悪魔が座っている。

 月光を編み込んだような銀糸の髪。ランプの光に透け、神々しいほどの美しさを放つ。

 だが、その血のように鮮やかな真紅の瞳は、ひどく不機嫌に細められていた。



「……やだァ。本当に、腹立たしい泥ネズミねェ」




 エリーが忌々しげに呟く。

 机の上。今日、ねねが納品したばかりの懐中時計が置かれている。



「不細工。不格好。どん臭い。……あんな薄汚い有機物の手でベタベタ触り回されて。私の完璧なお城には、一秒たりとも置いておけないわ。耳が腐りそう」



 黒革の手袋が持ち上がる。長い指先が、優雅に鳴る。



 パチン。



 甘やかな指鳴らしの音。瞬間、魔法の光が懐中時計を包み込む。

 光が晴れる。ねねは息を呑んだ。

 完璧な新品。ねねの技術ではどうしても消せなかった小さな傷。摩耗した歯車のわずかな歪み。ねねの指先の脂。

 すべてが、作られた直後のように『復元』されている。



(あ……)




 チェシャの忠告通りだ。

 私の手作業なんて、彼には一瞬で上書きできる。純銀のツールも、私の徹夜の努力も。全部、彼が指を鳴らすまでの『無意味な時間潰し』。

 絶望が胸を潰す。膝から崩れ落ちそうになる。

 だが。エリーの動きはそこで終わらない。

 彼は、傷一つなく完璧になった時計を見つめる。

 端麗な眉を、ひどく不快そうにひそめる。 



「……つまらないわ」



 チッ、と。艶やかな舌打ち。

 エリーは時計のカバーを開ける。美しい爪先を伸ばし、完璧に噛み合った歯車の中心を、ピンッと意地悪く弾いた。



『チク……タク……』



 狂いなく揃っていたリズム。それが、ほんの『0.001秒』だけズレる。

 人間の、熱を帯びた不規則な鼓動のように。

 エリーの唇に、嗜虐的で、ひどく甘い笑みが浮かぶ。

 それは、獲物を弄ぶ悪魔の顔。同時に、たった一つの玩具に執着して離せない、強欲な子供のような顔。  



「……ふふっ。そうねェ。これくらいポンコツな不完全さが、あの泥ネズミの『おままごと』にはちょうどいいわ。……私の魔法で完璧に直したなんて知ったら、あの生意気な女、またゴミ山みたいな顔して泣くんでしょう?」



 エリーは懐中時計をそっと持ち上げる。真紅の瞳を、愛おしさと苛立ちでドロドロに濁らせて。



「あァ、イライラする。この狂った鼓動を聞いていると……私まで、調子が狂いそうじゃないの。……あの女の薄汚いベンジンの匂い、どうして消えないのかしら。私の薔薇の香りが台無しよ。……ホント、反吐が出るくらい好き勝手してくれちゃって」



 悪態をつきながら。

 エリーは、ねねが直した(そして自分がわざとズレを作った)その懐中時計を、自分の胸元——狂った心臓の上へ、そっと押し当てた。

 目を閉じ、その不格好な「0.001秒のズレ」を、まるで極上の音楽のように聞き入る。

 毒々しい言葉。そこに混じる、隠しきれない異常な執着。ねねの心を折らないために、わざわざ時計を「不完全な状態」に戻すという、不器用な溺愛。 



 ——しかし。



 扉の外で覗き見ていたねねに、その「悪魔の愛情表現」は正しく伝わらない。

 ねねの深緑の瞳が見開かれる。

 血の気が引く。音を立てて、職人としての誇りが砕け散る。



(……わざと、壊した?)



 私が直した時計を、魔法で完璧な新品にする。そこまではいい。圧倒的な力の差だ。

 でも。そのあと、わざと少しだけズレを作る?

「ねねが直した不完全な時計」のフリをして、箱に戻す?

 それは、時計修理師にとって最大の侮辱だ。


(彼は私に、手加減してオモチャを与えてるだけなんだ) 


 代わりのきかない歯車になりたかった。自分の技術で、あの人の借金を返したかった。

 でも現実は違う。

 私は、哀れなペット。同情で飼われているだけ。完璧な悪魔の、退屈しのぎのおままごと。私が一生懸命に直す姿を見て、裏でこうやって嘲笑っているんだ。



『これくらいポンコツな不完全さが、あの泥ネズミにはちょうどいいわ』



 エリーの言葉が、鋭い刃となってねねの心臓を抉る。

 視界が涙で歪む。呼吸がうまくできない。



「っ……!」



 嗚咽が漏れそうになる。両手で口を強く塞ぐ。

 ねねは後ずさる。扉から離れる。

 これ以上、あの美しい悪魔の顔を見たくない。あの完璧な城の空気を吸いたくない。

 暗い廊下。声を殺し、逃げるように走り出した。

 足音が、静寂の城に空しく響く。

 誰の代わりにもなれない。誰からも必要とされない。

 その残酷な真実だけが、ねねの背中にべったりと張り付いていた。




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