第6話 番犬の忠告
「あいつの優しさを、真に受けるなよ」
静寂のアトリエ。チェシャの低く冷たい声が響く。
先ほどまで窓枠で微睡んでいた番犬。今は身を起こし、金色の瞳でねねを鋭く射抜く。
「……え?」
ねねは顔を上げる。手元では懐中時計が小気味よく時を刻む。
「優しさって……エリー様は、私に借金を返すために労働しろって言っただけで……」
「それが『優しさ』だと言ってんだよ」
チェシャは苛立たしげにアッシュグレーのボサボサ髪を掻き毟る。壁の巨大な双剣——時計の針を模した剣を睨む。
「よく考えろ、泥ネズミ。あいつは誰だ? 時を止めた狂った女王の、最高傑作だぞ」
音もなく床へ降り立つ。ねねの作業台の前に歩み寄る。
「お前も見たはずだ。あいつは指先一つで、巨大な硝子の処刑兵を薔薇の花びらに変えた。物質の構造を根底から書き換える、規格外の魔法だ」
「…………」
「時間を巻き戻すことすら造作もない怪物。そんな悪魔が、お前の遅くて不格好な『手作業』なんか、必要としてるわけねェだろ」
ドクン。
胸の奥。心臓が嫌な音を立てる。
「時計を直す? あいつが指を鳴らせば一瞬だ。傷一つない『完璧な新品』に元通りだ」
チェシャの突きつける残酷な事実。ねねの耳から脳髄へ侵食する。
「なのになぜ、人間の手作業を待つ? なぜ最高級の純銀ツールを与えて、アトリエに引き篭もらせる?」
「それは……私に、一生分と死後の魂の借金があるから……」
「建前だ」
吐き捨てるように言う。
「あいつは極度の完璧主義者だ。お前みたいな有機物が、研磨剤で汚れた指で直した時計。そんなもん、本来は城にあることすら許されねェ『不純物』なんだよ」
「……っ」
「お前がやってるのは時計修理じゃない。悪魔が哀れなペットに与えた、『おままごと』だ」
『代わりなんていくらでもいる』
『誰でもできる仕事だ。文句言うな』
ブラック企業の上司の怒声。ねねの鼓膜でフラッシュバックする。
(私じゃなくても、いい……?)
視線が、ゆっくりと両手へ落ちる。
青棒が染み込んだ、黒ずんで荒れ果てた指先。ベンジンの揮発臭。職人の誇り。それが急に、ひどく滑稽で汚らしいものに思える。
エリーは魔法で過労や泥汚れを一瞬で浄化してくれた。
しかし、指先の黒ずみだけは残った。……いや、違う。消せなかったのではない。あえて「残した」のではないか?
泥ネズミに相応しい『オモチャ』を与え、一生懸命にガラクタを直す滑稽な姿。それを観察して楽しむために。
「……嘘。だってエリー様は、私の時間を、死んだ後もずっと手放さないって……!」
震える手で純銀のピンセットを握る。必死に否定する。
「絶対に捨てない」。そう所有してくれた救世主。彼にとって、自分が『全く無価値な存在』だなんて。認めてしまえば、今度こそ完全に心が壊れる。
「信じたくないなら、それでいい」
チェシャはため息をつく。金色の瞳に微かな同情。
「だが、あいつに心なんてねェ。女王のシステムからお前を匿うための『永遠の所有契約』。それも単なる気まぐれだ。飽きられて捨てられる前に、身の振り方を考えておけよ」
言い残し、チェシャは窓枠に飛び乗る。赤黒い空の向こうへ消えた。
一人残されたアトリエ。ねねは呆然と立ち尽くす。
『チクタク、チクタク……』
心地よく、居場所を肯定してくれた時計の音。今は違う。まるで「お前は不要だ」と嘲笑うカウントダウンだ。
(本当に、私なんかが必要とされるわけがないんだ……)
極限まで削り取られた自己肯定感。暗い沼が、ねねの思考を飲み込む。
コンコン。
控えめなノック。アトリエの扉が開く。
「ねね様。ティータイムのカップをお下げいたします」
双子の自動人形、アルテとオルテ。
ワゴンを押す。同じ歩幅。同じ角度の瞬き。完璧なシンメトリーで歩み寄る。
無機質で、冷たく、一切の誤差がない美しい挙動。
それを見つめる。ねねは痛感する。
(そうだ……この城は、こんなにも完璧なんだ)
エリーの魔法で統制された世界。寸分の狂いもない。
その中で、指を真っ黒に汚し、ベンジンを匂わせる自分。いかに不釣り合いで、滑稽な『異物』であるか。
「……ねね様? お顔の色が優れませんが」
弟のオルテ。硝子玉の瞳に微かな揺らぎを浮かべる。ねねは力なく首を振った。
「ううん、何でもない。……ありがとう、ごちそうさま」
双子が退出する。ねねは作業台の前に座り込む。どうしても純銀のツールに手が伸びない。
(彼にとっての『代わりのきかない歯車』になりたかったのに)
もしチェシャの言う通り、これがただの「おままごと」なら。
直したつもりの時計たち。エリーに納品された後、一体どうなっているのか。
本当に、「魔法で一瞬にして新品に作り直されている」のか。
疑念が黒いインクのように広がる。冷たい不安が全身を巡る。
確かめなければならない。
自分の仕事。存在価値。あの美しき悪魔にとって、本当に『無意味なガラクタ』なのか。
夜。
城が、死んだような静寂に包まれる。
ねねは栗色の髪をきつく結び直す。薄暗い自室の扉をそっと開けた。
目指すは、城の最奥。帽子屋の執務室。
残酷な真実が待っている。分かっていても、ねねはもう、歩みを止められない。




