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壊れた国のアリス ~悪魔の帽子屋と時計師  作者: 茗子


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第5話 初めての納品と番犬の微睡み


『————チク、タク、チク、タク』



 静寂のアトリエ。リズミカルで心地よい金属音が響く。

 有栖ねねは右目のルーペを外し、ふぅ、と長く熱い息を吐き出した。



「……よし。完璧に直ったよ」



 手のひらに乗るのは、沈黙していたアンティークの懐中時計。

 ひしゃげた歯車は美しい円を取り戻す。折れたゼンマイは新しい命を吹き込まれ、力強く精緻に時を刻み始めている。

 作業台に並ぶ『最高級純銀のツールセット』。ねねはうっとりと深緑の瞳を細めた。

 指先に吸い付く完璧な重心のピンセット。一切の歪みがないルーペ。ブラック企業の劣悪な環境で安物を使い潰してきた彼女にとって、ここは狂おしいほどの楽園だ。


(こんな素晴らしい道具で、一日中時計と向き合えるなんて)


 艶やかな栗色の髪が揺れる。愛おしそうに懐中時計を胸に抱いた。

 青棒で黒ずんだ指先と、微かなベンジンの揮発臭。今の彼女には、誇り高き労働の証だ。もう「代わりのきく安い部品」ではない。この美しい城に、一生と死後の魂を懸けて返す『借金』という確かな居場所がある。

 ねねは立ち上がり、納品のためアトリエを出た。

   





「——やだァ。リズムが『0.001秒』ズレているじゃないの。耳が腐りそう」



 ダージリンと薔薇が香る豪奢なバルコニー。完璧なティータイム。

 帽子屋エリーは白磁のカップを置き、懐中時計を耳に当てて忌々しげに端麗な眉をひそめた。



「ひっ……ご、ごめんなさい……!」



 ねねの肩が跳ねる。

 流麗な銀髪が風に揺れ、真紅の瞳が黒ずんだ指先を冷酷に射抜いた。



「不細工な音。所詮は薄汚い有機物の手作業ねェ。私の完璧なお城なら、こんな醜いズレ、即座にヒールで踏み潰してスクラップ行きよ」



 エリーは懐中時計をテーブルに放る。黒革の手袋に包まれた指先で、カツン、と文字盤を弾いた。


 ——その瞬間。


 懐中時計を包む淡い光。ねねが数時間かけて調整した機構が、魔法の力で文字通り「一瞬」で完璧な構造へと書き換えられる。0.001秒のズレすら消失した、恐ろしいほどの絶対的なリズム。

 圧倒的な魔法使いとしての実力差。手作業など鼻で笑うような冷酷な奇跡。

 言葉の奥に、ねっとりとした意地悪さと嗜虐的な笑みが滲む。



「でもォ……アァタの『一生分と死後の魂』という莫大な負債。そこから、そうね。砂粒の半分くらいは引いてあげてもよくってよ。せいぜい私のために這いつくばって、死ぬまでその泥だらけの指を動かし続けなさいな」



 絶望的な奴隷労働の強要。普通の人間なら心が折れる。

 しかし。



「っ……! ありがとうございます、エリー様!」



 ねねの顔が、ひまわりのようにパッと輝いた。

「私、次はもっと完璧に仕上げます! だから、ずっと私に時計を直させてくださいね!」 



「…………は?」

 


 完璧な悪魔の仮面にヒビが入る。

 酷評した。魔法で格の違いを見せつけた。罵倒した。

 なのに、なぜこの女は、狂気じみた熱を帯びた瞳で嬉しそうに見つめてくるのか。

「自分にしか直せない機械の歯車になりたい」。その強烈なエゴイズムは、悪魔の理解を完全に超えている。



「……な、によその顔。本当に脳髄までカビが生えてるんじゃないの?」



 エリーは苛立ちを隠せない。理解不能な生き物を見る目。だが同時に、噛みつきたくなるような執着が胸をざわつかせる。



「ホント、反吐が出るくらい気味の悪い女。さっさと私の視界から消えなさい! 空気が濁るわ」



「はいっ! 失礼します!」



 弾むような足取り。アトリエへ戻るねねの背中。

 エリーはそれを、苛立ちと微かな熱の入り混じった真紅の瞳で、じっと見送った。

   




 アトリエ。休む間もなく次の「壊れた時計」へ手を伸ばす。

 木箱の中、沢山のガラクタが待っている。



「次は君だね。大丈夫、痛くしないからね……」



 機械の構造を覗き込む。深緑の瞳に異様な熱が宿る。愛しい恋人に囁くように、冷たい金属へ語りかけた。

 その姿を観察する二つの影。城を管理する、シンメトリーな双子の自動人形。



「……ねね様。新しい洗浄液ベンジンと、拭き取り用の布をお持ちしました」



 弟機のオルテ。音もなく歩み寄り、トレイを置く。



「あ、ありがとう、オルテ!」



 ねねが振り返る。満面の笑み。

 青棒で黒ずんだ、温かい人間の指先。それが、オルテの冷たく完璧な人工の指にふわりと触れる。



「え……」



 無機質な硝子玉の瞳が、微かに見開かれる。



「どうかした?」



「なぜ、俺がオルテだと……?」



 エリーの魔法による完璧なシンメトリー。見た目、声、所作。全て同じ。今まで誰一人として、兄のアルテと見分けられた者はいない。



「え? だってオルテのほうが、左胸の駆動音のピッチがほんの少しだけ高いもの。発条ぜんまいの巻き具合が違うのかなって」



 悪魔の魔法による完璧な偽装を、時計師の異常な執着が容易く貫いた。

 オルテは静かに後ずさる。両手を背中へ隠した。

 体内では、論理回路が理解不能なエラーを激しく吐き出している。

 胸の奥。精緻な心臓部で、密かに『内部温度』が上昇する。

 見捨てられたガラクタへ向ける熱い瞳。優しく時計を直す姿。そして、自分たちを個別の機械として見分けたその温かい手。

 オルテの完璧なシステムに、甘く取り返しのつかない『恋心バグ』が侵食していく。


(……俺も、どこか壊れれば。あの温かい手で直してもらえるのだろうか……)


 狂った思考に熱を上げる弟。その背後。兄機のアルテが無表情のまま深く深いため息をつき、弟の背中を小突いた。

   





『チクタク、チクタク……』


 ねねの作業音。直された時計の鼓動。アトリエに穏やかに響く。



「……ふわぁ」



 大きな欠伸。

 振り返ると、出窓のかまちの上。アッシュグレーのボサボサ髪をした獣人の青年、チェシャが丸くなっている。



「チェシャさん。いつの間に……」



「二個目をバラし始めたあたりからだよ」



 眠そうな金色の瞳をこする。尻尾をだらりと垂らし、身を起こす。時計の針を模した双剣は壁に立てかけられていた。



「ここはエリー様のお城だよ? 怒られないの?」



「あいつのティータイムさえ邪魔しなきゃ、基本放置だ。……それより、お前」



 チェシャがねねの手元の時計を指差す。



「そのまま、ずっと音を鳴らしてろ。絶対に手を止めるな」



「え?」



「……俺はな、酷い不眠症なんだよ」



 自嘲するように鼻で笑う。赤黒く澱んだ空を見つめた。



「女王が狂って、あのイカれた女の魔法で、世界の時間は完全に『静止』した。風も吹かねェ。花も散らねェ。人も老いねェ。完璧に死に絶えた無音の世界。頭がおかしくなりそうで、ずっと眠れなかった」



 金色の瞳が、ねねを真っ直ぐ捉える。



「でも、お前が直す時計の音は違う。お前の薄汚い手で不格好に動かした『時間』には、生き物の鼓動が混ざってる。……その音を聞いてる時だけ、唯一安らかに眠れるんだ」



 だから護衛してやってる。チェシャは再び窓枠にゴロンと寝転がった。

 ねねの胸の奥に、じんわりと温かい光が広がる。


(エリー様は、借金のために私を必要としてくれる)


(オルテたちも、健気に手伝ってくれる)


(チェシャさんは、私の時計の音がないと眠れないと言う)


 ブラック企業で摩耗した日々。誰の代わりにもなれる安い歯車。

 だがここは違う。静止した狂気の世界。悪魔の用意した完璧な鳥籠。ここでは皆が「有栖ねね」を必要とする。

 ここが、私の本当の居場所なのかもしれない。

 ベンジンの香り。純銀のピンセットを握り直す。満ち足りた微笑み。


 ——しかし。


 その温かい希望は、次の瞬間に残酷に凍りつく。



「……おい。泥ネズミ」



 背を向けていたチェシャ。低い、地を這うような声。

 ねねが顔を上げる。気怠げな番犬の姿はない。

 上半身を起こし、金色の瞳を氷のように鋭く細めてねねを射抜いていた。

 空気がピリッと張り詰める。



「え……?」



「……いいか、よく考えろ」



 紡がれたのは、ねねの「居場所」を根本から揺るがす、鋭利な刃物のような忠告だった。



「あいつは魔法で何でも一瞬で直せる悪魔だ。そんな奴が……どうしてお前の不細工な『手作業』なんかを必要としてると思う?」



「あっ……」



「あいつの優しさを、真に受けるなよ」



 血の気が引く。

 見ないふりをしていた一番の現実。

 自分は別に、必要不可欠な歯車ではないのかもしれない。

 冷たい疑念が、ねねの心に黒い染みのように広がっていった。




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