第4話 完璧な鳥籠と艶やかな栗色
漆黒の馬車の中。
気が狂うほどの静寂。息が詰まるような甘い香りが満ちる。
ガタゴトと揺れる車内。ねねは身を縮こまらせる。
向かいの豪奢なベルベットのシート。悪魔の帽子屋、エリーが足を組み、頬杖をついて窓の外を眺める。
月光の糸を紡いだような銀髪。血のように鮮やかで残酷な真紅の瞳。一糸乱れぬ完璧な漆黒のスーツ。ただそこに座るだけ。一枚の宗教画のように完成された美しさだ。
(……一生分の時間と、死んだ後まで、私を所有する……)
ねねは膝の上で両手を握りしめる。泥だらけの服の感触を確かめる。
ブラック企業で「いつでも捨てられる歯車」として扱われた日々。摩耗しきった心。先ほどの理不尽な奴隷宣告は、甘やかな呪いとなって胸の奥底に浸透する。
自分はもう、捨てられない。
その事実だけで、過労の限界を超えた体が熱を帯びる。
やがて馬車は、鬱蒼とした赤黒い森を抜ける。巨大な鉄格子の門をくぐった。
時間が静止した狂気の世界。そこにそびえ立つ、豪奢で巨大な城。
「ちょっと⋯泥ネズミ」
冷たく、ひどく甘い声。エリーが真紅の瞳を向ける。
「いつまで私の馬車に、その薄汚いお尻をつけてるつもり? さっさと降りなさいな」
急かされ、ねねは慌てて馬車を降りる。
城のエントランスに足を踏み入れた瞬間。ねねはハッと息を呑む。
『チクタク、チクタク、チクタク……』
城内の至る所に飾られた無数の時計。壁掛け時計、大きなホールクロック、精緻なからくり時計。
数百、数千の時計の秒針が、『完全に同じリズム(0.001秒のズレもなく)』で時を刻む。
狂気的な完璧さ。機械の構造を知る時計修理師だからこそ分かる。これほど多様な時計の秒針を、一切の誤差なく同調させるなど物理的に不可能だ。
「やだァ。ホント、何度見ても不細工で……ちっともそそられない泥ネズミねェ」
巨大なシャンデリアの下。エリーが忌々しげに端麗な眉をひそめる。
真紅の瞳。ねねのボロボロの服、泥だらけの顔、そして洗浄液の揮発臭を鋭く射抜く。
「私の完璧なお城に、そんな薄汚い有機物がウロチョロするなんて反吐が出るわ。……ほら、少しはマシな姿に『加工』してあげる」
黒革の手袋。エリーの指先がパチン、と優雅に鳴る。
瞬間、温かく眩い光がねねを包み込む。
「え……っ?」
光が晴れる。ねねは自分の体を見下ろし、目を丸くする。
泥や油汚れが、一瞬で消え去る。それだけではない。
15時間連続勤務でバキバキに凝り固まった肩の重み。割れるような頭痛。極限の眼精疲労。すべてが嘘のように『浄化』される。
細胞の一つ一つが、最も健康で美しい状態へ巻き戻った感覚。衣服も、城に合わせた清潔でクラシカルなメイド風のワンピースへ作り変えられている。
魔法の光で汚れを落とされた、本来の姿。
艶やかな栗色の髪が、サラリと肩にこぼれる。疲労の隈が消えた目元。知性と情熱を秘めた深緑の瞳が、宝石のように澄んだ光を宿す。
ただ一つ。
青棒の成分が皮膚の奥まで染み込んだ、職人の『指先の黒ずみ』。これだけはどうしても魔法で消え去らず、生きた証のように残る。
「…………」
エリーが無言で歩み寄る。
手袋越しの冷たい指先。ねねの艶やかな栗色の髪を、ふわりとすくい上げる。
ビクッ、とねねの肩が跳ねる。
「……ふふっ。磨けば、少しはマシな色合いになるじゃないの」
唇に浮かぶ、意地悪で嗜虐的な微笑み。
真紅の瞳が、至近距離でねねを覗き込む。興味と苛立ちの入り混じった熱い視線が、ねねの顔から、あの『黒ずんだ手』へと落ちる。
ダージリンと薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。ねねの心臓がトクン、と不規則に跳ねる。
(……なんて、美しい人なんだろう……)
恐怖はない。完成された美への淡い憧れ。さざ波のようにねねの胸に広がる。
「……でも、この手だけは本当に目障りだわ」
エリーはねねの指先を鼻先で笑うと、ふいっと背を向けた。
「アルテ。オルテ」
短く呼ぶ。大理石の床を音もなく滑り、二つの影が現れる。
「「お呼びでしょうか、マスター」」
完全に重なる声。
エリーの極端な美学が反映された、最高級のアンティークな給仕服。中性的な二人の少年。
硝子玉のように透き通った無機質な瞳。瞬きのタイミング、歩幅、お辞儀の角度。寸分の狂いもない『左右対称』な双子の自動人形。
「この強欲な泥ネズミを、アトリエに放り込みなさい。借金取りがどれだけ底意地悪で恐ろしいか……その骨の髄まで、たっぷり教えてあげるのよ」
振り返り、エリーはねねに毒々しく美しいウィンクを落とす。
「「御意に」」
双子は一切の感情を交えない。冷たい声で応じ、ねねの両脇に立つ。完璧なユニゾンで歩き出す。
案内された先。城の奥にある、信じられないほど豪奢な部屋。
天蓋付きのベッド、柔らかな絨毯、壁一面の本棚。
しかし、ねねの視線を何よりも釘付けにしたもの。それは、部屋の中央に鎮座する巨大なアンティークの作業台。
「マスターの命により、廃棄予定のスクラップをお持ちしました」
双子の兄・アルテが淡々と告げる。弟のオルテが作業台の上に重たい木箱を置く。
ゴトリ、と鈍い音。
中には数十個の『完全に壊れた時計』の山。ひしゃげた歯車、折れたゼンマイ、割れた文字盤。通常の手段では修復不可能なガラクタたち。
さらに、アルテが恭しく一つの革張りケースを開く。
黒いベルベットの布の上。現代の時計修理センターでも見たことがないほど精巧で、手に吸い付くような輝きを放つ『最高級純銀のツールセット』。
「『一生分と死後の魂』という莫大な負債。こちらの工具を使用し、時計の修理という労働をもって返済を行ってください。……以上です」
感情の読めない硝子玉の瞳。双子は静かに一礼する。
彼らは「冷たく完璧な機械」。こんなガラクタの山を押し付けられ、一生分の借金を返せと脅されれば、この有機物は絶望して泣き崩れる。そう論理的に計算する。
しかし。
「……えっ。これ、全部、私が直していいの……!?」
ねねの声は、歓喜で上ずり切る。
「……?」
双子が微かに首を傾げる。弟オルテの内部時計が、わずか0.0001秒だけ早く。
予測不能なエラー。なぜ絶望するどころか、目を輝かせるのか。
ねねは震える手で、純銀のピンセットに触れる。
指先に完璧に馴染む重心。透き通るような最高品質のルーペ。
目の前にある「自分を待っている、壊れた機械たちの山」。
『死んで灰になった後の魂まで担保に、永遠の所有をいただくわ』
悪魔の冷酷な言葉。ねねの脳内で最高のファンファーレとして鳴り響く。
(私には、返す借金がある。私を所有して、私を必要としてくれる人がいる。……だから、直さなきゃ!)
「ふふ……あははっ、凄い、凄い……!」
右目にルーペを嵌め込む。
その瞬間。深緑の瞳に、狂気的な職人としての熱い火柱が上がる。
根底にあるのは、「自分にしか直せない機械の、たった一つの歯車になりたい」という強烈な渇望。
同情されるだけのペットでいるつもりはない。
この仕事で必ず借金を返す。あの美しく難解な悪魔の心臓すらも、自分の手で分解し、自分がいなければ生きられないように作り変えてみせる。そのための第一歩。
「待っててね。私が今、完璧に直してあげるから。……私の時間を全部使って、あの人の借金を返してあげるからね!」
完璧な鳥籠の中。艶やかな栗色を揺らす。
有栖ねねは純銀のツールを握りしめ、歓喜の笑みと共に、与えられた生きがいへと没頭していく。




