第3話 永遠の所有宣言
首元を締め上げる黒革の手袋。
極上のなめし革の匂いに、芳醇な薔薇とダージリンの香りが混ざり込む。
「ひっ……!」
有栖ねねの細い体は、容易く宙に持ち上げられた。
足が浮く。息が詰まる。だが、ねねの思考をショートさせたのは窒息の苦しみではない。至近距離で睨み下ろす悪魔——帽子屋エリーの、暴力的なまでの美しさだ。
月光を紡いだような流麗な銀髪が、赤黒い空の下で発光する。
残酷な真紅の瞳。ゴミを見るような冷徹さで、ねねを射抜いている。一糸乱れぬ漆黒のスーツには、先ほどの戦闘の塵一つ乗っていない。
「いいこと、泥ネズミ? アァタが勝手にガラクタを動かして下品にキャンキャン騒いだせいで、私の完璧なティータイムが『三秒』も遅れたのよ。……万死に値するわ」
鈴の音のように甘い。だが、絶対零度の猛毒。
エリーは端麗な眉をひそめ、ねねの黒ずんだ指先と、胸に抱かれた真鍮の歯車を虫でも見るように一瞥した。
「その汚い手ごと、綺麗にすり潰してあげようかしら。……それとも。私のショーケースで、たっぷりと落とし前を払わせてあげようかしら?」
「……ッ、ごめ、なさ……」
「謝罪? 誰がそんな安っぽいものを求めたかしら」
かすれる声を、冷酷に遮る。
「私が欲しいのは対価よ。た ・ い ・ か」
真紅の瞳が、ふわりと細められる。
地獄の底で悪魔が契約を迫る顔。ひどく恐ろしく、ひどく美しい。
「そうねェ……アァタの『残りの人生すべての時間』。そして死んで灰になった後の魂までを担保に、永遠の所有権をいただくわ。私に負債を返し終わるまで、勝手に死ぬことも、逃げることも許さない。骨の髄までこき使ってあげる」
宣告が響く。周囲の空気が完全に凍りついた。
「なっ……! おい、帽子屋!!」
背後でチェシャが叫ぶ。血相を変え、眠そうな金色の瞳を驚愕に見開いていた。
「自分が何言ってんのか分かってんのか!? そいつは女王の処刑対象だぞ! 自分の『借金奴隷』として囲うなんて、女王のシステムに喧嘩を売るって……!」
「お黙り!薄汚い番犬」
エリーは一瞥もくれない。氷の声で黙殺する。
「私のオモチャを私がどう壊そうと、女王の知ったことではないわ。……そォれとも? アァタがこの泥ネズミの借金を肩代わりしてくれるとでも言うのかしら?」
「っ……」
チェシャは歯噛みして押し黙る。女王の最高傑作である、この悪魔の権限と狂気を知っている。これ以上は踏み込めない。
宙吊りのまま。ねねの頭の中で、宣告がぐるぐると回っていた。
一生分と、死んだ後まで。
普通なら絶望する。命も魂も握られ、永遠の奴隷宣言をされたのだ。泣き叫ぶか、気を失う。すべてを奪われたのだから。
——しかし。
ブラック企業で極限まで摩耗しきった有栖ねねの「自己肯定感」は、致命的なバグを起こしていた。
『代わりなんていくらでもいる』。魂を削り取る呪いの言葉。いつでも捨てられる安い歯車。誰からも必要とされない。だからせめて、見捨てられた「壊れた時計」だけは直したかった。
そんな彼女に、目の前の美しい悪魔はなんと言ったか。
『残りの人生すべての時間と、死後の魂まで担保にいただくわ』
それはつまり。ねねという人間を。ねねの時間を。
命が尽きて灰になっても、『絶対に捨てない』という究極の縛り。
「……あ……」
深緑の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
泥に塗れた頬を伝う。恐怖ではない。乾いた砂漠の真ん中で水を与えられたような、痛いほどの歓喜。
「……っ、ふ、ふふ……」
「……何がおかしいの? 気味が悪いわね」
エリーが不審げに眉をひそめる。
ねねは腕の中の歯車を抱きしめ直し、涙でぐしゃぐしゃの顔をほころばせた。黒ずんだ唇が、とびきり嬉しそうな弧を描く。
「……私の時間を。これから死ぬまで……ううん、死んで灰になった後も。ずっと、必要としてくれるんですか……?」
「…………は?」
エリーの口から、間抜けな音が漏れた。
冷徹で完璧な悪魔の仮面。それが初めて崩れ落ちる。
ねねは熱に浮かされた瞳で、エリーを真っ直ぐに見つめ返す。極小の機械の構造を貪るように覗き込む時の、あの異様な熱と狂気を宿して。
「私、いくらでも働きます。一生でも、死んだ後でも……あなたが私を所有してくれるなら。ずっと、あなたのための歯車になります……っ!」
エリーは固まった。
理解が追いつかない。奴隷契約に絶望して泣き叫ぶ人間は見てきた。命乞いも見た。だが、喜ぶ人間など見たことがない。
「な、アァタ……頭、イカれてるんじゃないの……!?」
借金奴隷の宣告に対し、「自分を必要としてくれた」と狂気じみた笑顔を向ける女。永遠を生きる悪魔でさえ、これほど理解不能で歪んだ生き物は知らない。
エリーは思わず、汚物を手放すように手を離した。
「痛っ」
ドサリ。ゴミ山に尻餅をつく。だが、ねねの顔はどうしようもなく満ち足りている。
エリーは乱暴に手を振る。手袋の見えない汚れを払うように。
彼の魔法は「一瞬で新品に戻す」冷たい完璧。しかし、目の前で笑う泥ネズミは、荒れた指先と不格好な手作業で、彼がとうに捨てたはずの「生命の鼓動」を直してみせた。
そして今、奴隷の鎖を喜んで首に巻き付けようとしている。
その異常性。背筋が粟立つような悪寒。そして——激しい苛立ちと、噛みつきたくなるような甘い執着が、エリーの胸の奥でチリリと焦げた。
「……本当、反吐が出るくらい気味が悪い女ねェ」
舌打ち。背後の空間が歪み、漆黒の馬車が現れる。その扉を、魔力で乱暴に開け放った。
「さっさとお乗り! アァタのその薄汚い服も、鼻が曲がりそうな悪臭も、私の城で徹底的に漂白してやるわ。一生分の借金を返すまで、一秒たりとも休めると思わないことね!」
苛立ちに任せて吐き捨てる。ねねの細い腕を強引に掴み、豪華な馬車の中へ、文字通り放り投げた。
「わっ……! あ、あの、歯車は……!」
「そんなガラクタ抱きしめてんじゃないわよ! 私の最高級のシートが汚れるじゃァないの!」
バタンッ!!!
暴力的な音と共に、漆黒の馬車の扉が閉ざされた。




