第2話 硝子の処刑兵と悪魔の帽子屋
『————チク、タク』
音のない赤黒い世界に、静かな秒針の音が響き渡る。
手の中で規則正しく震える真鍮の歯車。指先から伝わるその確かな鼓動に、ねねの深緑の瞳が恍惚に細められた。
私が直した。
私がいなければ、この子は息をすることすらできない。
摩耗しきった心を埋め尽くす、倒錯した支配欲。だが、その甘い熱は頭上から降ってきた硬質な音によって唐突に断ち切られる。
ピキリ……ッ!
見上げると、赤黒く澱んだ空そのものが、薄いガラスのようにひび割れていた。
亀裂が蜘蛛の巣のように走り、パリンッ、と甲高い音を立てて砕け散る。
重力が反転したかのように、空の裂け目から無数の塊が降り注いだ。ズシンッ、と重たい着地音がゴミ山を揺らす。
身の丈二メートル超。全身が鋭利なステンドグラスで構成された異形の騎士たち。顔の無い兜の奥で、青白い炎が不気味に揺らめいている。
彼らは、時が進むことを激しく憎む女王の「自動防衛システム」。静止した世界で時を動かす異物を検知し、物理的に削り取るための『硝子の処刑兵』だ。
ギギ……と不快な摩擦音を鳴らし、処刑兵たちが一斉にねねを向く。
標的はねねではない。彼女の手の中でチクタクと時を刻む『歯車』と、それを動かした大罪人。
巨大な硝子の斧が、無機質に振り上げられる。
逃げなければ殺される。だが、ねねの足は一歩も引かない。それどころか、直したばかりの歯車へ覆い被さるようにして盾になる。
自分の命より、せっかく息を吹き返した機械をこんなガラクタに壊されることの方が、我慢ならない。
迫る硝子の刃。ねねが強く歯車を抱きしめた、その瞬間。
——チリッ。
空気を極薄の刃で撫でるような、微かな予備音。
直後。
「寝てたのに、うるせェんだよッ!!」
凄まじい獣の咆哮と共に、空気を裂く鋭い音が空間を薙ぎ払った。
ガシャァァァンッ!!
ねねの目前まで迫っていた処刑兵が、一瞬にして粉々に砕け散る。
猛烈な風圧に煽られ、ねねは目を開いた。
そこに立っていたのは、アッシュグレーのボサボサ髪をした獣人の青年だった。身の丈ほどもある巨大な双剣を肩に担ぎ、金色の瞳を苛立たしげに細めている。
「立て! ぼーっとしてんじゃねェ!」
巨大な時計の『長針』と『短針』を模した無骨な剣。静止した狂気の世界で不眠症に陥っていた番犬、チェシャだ。
「お前の時計の音が止まったら、俺がまた眠れなくなっちまうからだよ! 動いてる時計なんざ、この世界じゃ死刑宣告だ。さっさとそれ捨てて逃げろ!」
チェシャが双剣を振るい、次々と襲い来る処刑兵を力任せに粉砕していく。
だが、倒しても倒しても、空の亀裂からは新しい硝子の騎士が無数に降ってくる。圧倒的な多勢に無勢。三体同時の斬撃を受け流しきれず、チェシャが体勢を崩した。
その隙を突き、一体の処刑兵がねねの脳天へ斧を振り下ろす。
——その時。ふわりと、空気が変わった。
ベンジンの匂いと鉄錆の臭気しかしないゴミ山に、場違いなほど芳醇な薔薇の香りが漂う。
「やだァ。ホントに野蛮ねェ。私の美しい散歩道で、物騒なオモチャを振り回すんじゃないわよ」
鼓膜を甘く撫でるような、滑らかで、底冷えのする声。
振り下ろされたはずの硝子の斧が、ねねの頭上わずか数センチの空中でピタリと静止する。
見上げると、硝子の破片が舞い散る中を、一人の男が悠然と歩いてくるところだった。
月光を紡いだような流麗な銀糸の髪。一糸の乱れもない漆黒のスーツ。そして、獲物を値踏みするような、凍りつくほど美しい真紅の瞳。
狂気の世界に咲いた一輪の毒花のような、圧倒的な美貌。
「美しくないものは、お花畑の肥料にでもなりなさい」
男——悪魔の帽子屋エリーは、黒革の手袋に包まれた指先で優雅にパチン、と指を鳴らした。
瞬間、迫り来ていた巨大な処刑兵たちの動きが完全に凍結する。彼らの透明な身体の奥から不気味な脈動が響いたかと思うと、一斉に内側から弾け飛んだ。
破片は散らない。硝子の塊は、エリーの圧倒的な魔法によって瞬時に『真紅の薔薇の花びら』へと書き換えられる。
血の雨のように降り注ぐ薔薇の吹雪。咽せ返るような甘ったるい死の匂いが、ゴミ山を侵食していく。
歯車を抱いたまま、ねねは呆然と見つめていた。恐怖よりも先に、その劇薬のような悪魔の完成された美しさに視線が縫い付けられる。
降り注ぐ花びらの中、エリーは優雅な足取りでゴミ山を下り、へたり込むねねの目の前で立ち止まった。
「……本当に、目障りで汚らしい泥ネズミねェ。私の庭をほじくり返して、いったい何の真似かしら?」
真紅の瞳が、ゴミを見るような極上の冷笑で見下ろしてくる。
視線がねねのボロボロの衣服を舐め、やがて彼女が胸に抱く「動く歯車」へ。さらに、それを守る『両手』でピタリと止まる。
青棒で黒ずみ、ベンジンで荒れ果てた、無惨な時計職人の指先。
それを見た瞬間、エリーの真紅の瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、強烈な痛みを堪えるように小さく揺らぐ。かつて自らの手で壊した心臓の記憶が、その不格好な手に重なったかのように。
だが、その揺らぎは瞬きよりも早く消え去った。
即座により分厚く、より冷徹な道化の仮面が被せられる。エリーの口元に、酷薄で美しい笑みが張り付いた。
黒革の手袋が伸び、這いつくばるねねの胸ぐらを乱暴に掴み上げる。
「ぐっ……!」
足が宙に浮き、呼吸が詰まる。至近距離で睨み下ろす悪魔の瞳に、慈悲はない。
苛立ちと、隠しきれない異様な執着が毒のように甘く混ざり合う。
「いいこと、泥ネズミ? アァタが勝手にガラクタを動かして下品にキャンキャン騒いだせいで、私の完璧なティータイムが『三秒』も遅れたのよ。……万死に値するわ」
絶対に交わるはずのなかった二つの狂気が、永遠に静止した世界で最悪の邂逅を果たした。




