第1話 優しい歯車
「手が遅いなら寝ずにやれ。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ」
頭上から降ってくる上司の怒声すら、今の有栖ねねの鼓膜には届かない。
充満するベンジンの揮発臭。白茶けた蛍光灯。
ねねの意識は、顕微鏡越しの0.1ミリの極小ネジ一点にのみ、異常なほど収束していた。瞬きすら惜しい。ピンセットの先で、ひたすらに標的を追い詰める。
15時間を超える連続勤務。眼球の裏でどくどくと沸騰するような痛覚も、汗で首に張り付く栗色の髪も、今の彼女にとっては些末なものでしかなかった。
「はい、申し訳ありません」
呼吸をするように謝罪を吐き出し、青棒の粉で黒ずんだ指先がピンセットを強く握り直す。
今日ここで倒れても、明日には別の誰かがこの席に座る。ねねは巨大な社会という機械の、いつでも交換可能な安い歯車に過ぎない。
それでも、彼女は逃げ出さない。この地獄の底にねねを繋ぎ止める、たった一つの理由があった。
アンティーク時計の心臓部へ、そっと油を差す。
カチリ。
極小のパーツが完璧な角度で噛み合う。指先に伝わる微細な振動。沈黙していた時計が、再び規則正しい脈を打ち始める。
その瞬間、ねねの乾ききった心に、仄暗い歓喜がじわりと滲み出した。
壊れて見捨てられたガラクタの命を、自分だけが支配し、蘇らせることができる。私がいなければ、この時計はただのゴミだ。
この倒錯した優越感だけが、摩耗した彼女の命を繋ぐ唯一の生命線だった。
しかし、人間の肉体には物理的な限界がある。
突如、限界が訪れた。
視界がぐにゃりと歪む。
手足を動かす命令が脳から途絶える。ピンセットが滑り落ちる乾いた音が、遠くに響いた。
手を止めたら、捨てられるのに。
警鐘を鳴らす生存本能も空しく、ねねの体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、深い暗闇へと沈んでいった。
◆
痛みが、ない⋯?
意識が浮上し、ねねが最初に感じたのはそれだった。
激痛も泥のような疲労感も消え去り、ひどく冷たい空気だけが肌を撫でる。
ゆっくりと目を開く。
仕事、しなきゃ。
未知の異世界に落ちた恐怖など、そこにはない。極限まで搾取された女の脳は、とっくに壊れている。「手を止めたら、捨てられる」というトラウマが、生存本能を容易く塗り潰していた。
視界に広がるのは、職場の白い壁でも、自宅の天井でもない。
赤黒く澱んだ空。見渡す限り広がる、果てしないスラム街。
錆びついたスクラップと朽ち果てたレンガ。山のように積み上げられた無数のガラクタ。
だが何よりも異質なのは、世界が完全に『停止』していることだ。
風は吹かず、赤黒い雲は空に縫い付けられている。遠くに見えるボロボロの衣服の人影は、歩く姿勢のまま石像のように固まっていた。
音すらない、絶対的な静寂。普通の人間ならパニックを起こし、泣き叫ぶだろう。
だが、ねねは無表情のまま立ち上がる。
異常な環境への疑問など、とっくに忘却の彼方だ。錆びた金属片を踏み越え、目の前の巨大なゴミ山へと足を進めた。
ふと、ある一点に視線が吸い寄せられる。
鉄屑に埋もれるように転がっていたのは、人間の頭ほどもある巨大な真鍮製の歯車。
ピンが外れ、酷くひしゃげた廃棄物。
ねねはゴミ山をよじ登り、その重たい歯車を両手で抱え上げた。
黒ずんだ指先が、冷たい金属の感触をなぞる。
「可哀想に。あなたも、壊れて捨てられちゃったのね」
こぼれ落ちた呟き。それは純粋な優しさなどではない。
壊れて見捨てられたなら、私だけのものになる。私だけが、この子の価値を証明して完全に支配できる。慈愛の皮を被った、ひどく歪んだ執着の発露だった。
ねねはその場に座り込み、歯車の構造を真っ直ぐに見つめる。
ピンセットも、ルーペも、ベンジンもない。
あるのは時計への執着と、極限まで研ぎ澄まされた指先の感覚だけ。
「大丈夫。痛くないようにするからね」
甘く囁きながら、素手で硬い金属の歪みを押し戻し始める。
爪が剥がれそうになろうと、指先から血が滲もうと、表情一つ変えない。
時が止まった世界の中で、有栖ねねという女だけが、熱に浮かされたように動き続けていた。
構造を指先で貪るように理解し、外れたピンを元の位置へ強引に滑り込ませる。
複雑に絡み合った発条のテンションを読み取り、本来あるべき軌道へとねじ伏せる。
漏れ出る吐息が熱を帯びる。
そして。
——カチリ。
最後の歯車が、完璧な角度で噛み合った。
死んでいたはずの機械の心臓が、ビクンと跳ねて再び力を宿す。指先から伝わってくる、微かな、けれど規則正しい振動。
その確かな鼓動を感じ取った瞬間、ねねの脳髄にじわりと甘い痺れが広がった。
たまらない。
私にしか直せない。私がいなければ、この子は息をすることすらできない。
心の底に沈んでいた静かな狂気が溢れ出し、ねねの唇がゆっくりと歪な弧を描いた。
『————チク、タク』
音のない赤黒い世界に、静かな秒針の音が響き渡る。
それは、静止した世界に落ちた、決して許されない破滅の音だった。




