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壊れた国のアリス ~悪魔の帽子屋と時計師  作者: 茗子


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第1話 優しい歯車



「手が遅いなら寝ずにやれ。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ」



 頭上から降ってくる上司の怒声すら、今の有栖ありすねねの鼓膜には届かない。

 充満するベンジンの揮発臭。白茶けた蛍光灯。

 ねねの意識は、顕微鏡越しの0.1ミリの極小ネジ一点にのみ、異常なほど収束していた。瞬きすら惜しい。ピンセットの先で、ひたすらに標的を追い詰める。

 15時間を超える連続勤務。眼球の裏でどくどくと沸騰するような痛覚も、汗で首に張り付く栗色の髪も、今の彼女にとっては些末なものでしかなかった。



「はい、申し訳ありません」



 呼吸をするように謝罪を吐き出し、青棒の粉で黒ずんだ指先がピンセットを強く握り直す。

 今日ここで倒れても、明日には別の誰かがこの席に座る。ねねは巨大な社会という機械の、いつでも交換可能な安い歯車に過ぎない。

 それでも、彼女は逃げ出さない。この地獄の底にねねを繋ぎ止める、たった一つの理由があった。

 アンティーク時計の心臓部へ、そっと油を差す。


 カチリ。


 極小のパーツが完璧な角度で噛み合う。指先に伝わる微細な振動。沈黙していた時計が、再び規則正しい脈を打ち始める。

 その瞬間、ねねの乾ききった心に、仄暗い歓喜がじわりと滲み出した。

 壊れて見捨てられたガラクタの命を、自分だけが支配し、蘇らせることができる。私がいなければ、この時計はただのゴミだ。

 この倒錯した優越感だけが、摩耗した彼女の命を繋ぐ唯一の生命線だった。

 しかし、人間の肉体には物理的な限界がある。

 突如、限界が訪れた。

 視界がぐにゃりと歪む。

 手足を動かす命令が脳から途絶える。ピンセットが滑り落ちる乾いた音が、遠くに響いた。

 手を止めたら、捨てられるのに。

 警鐘を鳴らす生存本能も空しく、ねねの体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、深い暗闇へと沈んでいった。

   







 痛みが、ない⋯?



 意識が浮上し、ねねが最初に感じたのはそれだった。

 激痛も泥のような疲労感も消え去り、ひどく冷たい空気だけが肌を撫でる。

 ゆっくりと目を開く。

 仕事、しなきゃ。

 未知の異世界に落ちた恐怖など、そこにはない。極限まで搾取された女の脳は、とっくに壊れている。「手を止めたら、捨てられる」というトラウマが、生存本能を容易く塗り潰していた。

 視界に広がるのは、職場の白い壁でも、自宅の天井でもない。

 赤黒く澱んだ空。見渡す限り広がる、果てしないスラム街。

 錆びついたスクラップと朽ち果てたレンガ。山のように積み上げられた無数のガラクタ。

 だが何よりも異質なのは、世界が完全に『停止』していることだ。

 風は吹かず、赤黒い雲は空に縫い付けられている。遠くに見えるボロボロの衣服の人影は、歩く姿勢のまま石像のように固まっていた。

 音すらない、絶対的な静寂。普通の人間ならパニックを起こし、泣き叫ぶだろう。

 だが、ねねは無表情のまま立ち上がる。

 異常な環境への疑問など、とっくに忘却の彼方だ。錆びた金属片を踏み越え、目の前の巨大なゴミ山へと足を進めた。

 ふと、ある一点に視線が吸い寄せられる。

 鉄屑に埋もれるように転がっていたのは、人間の頭ほどもある巨大な真鍮製の歯車。

 ピンが外れ、酷くひしゃげた廃棄物。

 ねねはゴミ山をよじ登り、その重たい歯車を両手で抱え上げた。

 黒ずんだ指先が、冷たい金属の感触をなぞる。



「可哀想に。あなたも、壊れて捨てられちゃったのね」



 こぼれ落ちた呟き。それは純粋な優しさなどではない。

 壊れて見捨てられたなら、私だけのものになる。私だけが、この子の価値を証明して完全に支配できる。慈愛の皮を被った、ひどく歪んだ執着の発露だった。

 ねねはその場に座り込み、歯車の構造を真っ直ぐに見つめる。

 ピンセットも、ルーペも、ベンジンもない。

 あるのは時計への執着と、極限まで研ぎ澄まされた指先の感覚だけ。



「大丈夫。痛くないようにするからね」



 甘く囁きながら、素手で硬い金属の歪みを押し戻し始める。

 爪が剥がれそうになろうと、指先から血が滲もうと、表情一つ変えない。

 時が止まった世界の中で、有栖ねねという女だけが、熱に浮かされたように動き続けていた。

 構造を指先で貪るように理解し、外れたピンを元の位置へ強引に滑り込ませる。

 複雑に絡み合った発条ぜんまいのテンションを読み取り、本来あるべき軌道へとねじ伏せる。

 漏れ出る吐息が熱を帯びる。

 そして。



 ——カチリ。



 最後の歯車が、完璧な角度で噛み合った。

 死んでいたはずの機械の心臓が、ビクンと跳ねて再び力を宿す。指先から伝わってくる、微かな、けれど規則正しい振動。

 その確かな鼓動を感じ取った瞬間、ねねの脳髄にじわりと甘い痺れが広がった。

 たまらない。

 私にしか直せない。私がいなければ、この子は息をすることすらできない。

 心の底に沈んでいた静かな狂気が溢れ出し、ねねの唇がゆっくりと歪な弧を描いた。



『————チク、タク』



 音のない赤黒い世界に、静かな秒針の音が響き渡る。

 それは、静止した世界に落ちた、決して許されない破滅の音だった。



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