第9話:孤独な夜の終わり
その夜の献立は、鯖の味噌煮だった。
生姜の香りがふんわりと立ち上り、甘辛い味噌のタレが脂の乗った鯖にしっかりと絡んでいる。副菜にはほうれん草のお浸しと、出汁をたっぷり吸ったがんもどき。
「……ふぅ。完璧な味の階層構造だわ。この味噌の塩分と糖分の比率、脳内報酬系をダイレクトに叩いてくる」
美鈴は行儀よく、それでいて猛烈な勢いで箸を動かしている。
僕はその姿をぼんやりと眺めながら、ふと、自分の茶碗を見つめた。
白い湯気。温かい部屋。
かつて、僕にとっての食事は、もっとずっと冷たくて静かなものだった。
(……あの日も、こんな静かな夜だったな)
一年ほど前。中学を卒業したばかりの夜。バイトから帰ると、家の中の空気が妙に軽かった。親の荷物がごっそりと消え、テーブルの上には「もう無理。あとはよろしく」と殴り書きされたメモが一枚。
呆然とした。どうすればいいのかまるで分からなかった。
それでも空腹はやってくる。だが、どうにかしようにも家の冷蔵庫は空っぽで、財布には千円札がたった一枚入っているだけだった。
仕方なく近くのコンビニで、値引きされた売れ残りの弁当を買った。暗く静かな台所で、一人、冷たくパサついた白米を口に運んだ。
あの時は味なんて何も感じなかった。ただ、「僕はこの世に要らない存在なんだ」という重苦しい事実だけを、一緒に飲み込んでいた。
「……高丘くん? 栄養供給がストップしているわよ。思考のオーバーロード?」
不意に、目の前から無機質な声が飛んできた。
ハッとして顔を上げると、美鈴が空になった茶碗をこちらに差し出していた。
「……あ、ごめんなさい。今おかわりをよそいますね」
「お願い。それと、そのがんもどきをあと二つ。私の現在の代謝量から計算して、あと三〇〇キロカロリーは摂取可能だわ」
彼女は当たり前のように、僕の作ったご飯を欲しがっている。
僕がいなければ、彼女の体は到底維持できない。僕が作ったもので、彼女の血肉が作られている。その事実が、かつての冷たい記憶を、じわりと温かい上書きによって消し去っていく。
「……天ノ川さん。僕の作るご飯、そんなに気に入ったんですか?」
「気に入る、気に入らないという情緒的な表現では不十分ね。私の生存における最重要インフラだと定義しているわ」
僕はおかわりを盛りながら、少しだけ自嘲気味に笑った。
「……僕を捨てた人たちが聞いたら、ビックリするでしょうね。あの人たちは僕のことなんて何の役にも立たない『不良品』だと思ってたみたいですし」
何気なく漏らした独り言だった。だが、美鈴は茶碗を受け取る手を止め、じっと僕を見つめた。分析するような、冷徹で、それでいて酷く真っ直ぐな瞳。
「高丘くん。……過去に君を『放棄』したという個体について、私の見解を述べるわ」
美鈴は背筋を伸ばし、淡々と、しかし一点の曇りもない口調で言い切った。
「その個体群は、情報の収集能力および先見性が著しく欠如している。君というこれほどまでに稀少で、多機能で、かつ代替不可能な高付加価値リソースを手放すなんて、生物学的にも経済学的にも完全な『エラー』よ」
彼女は再び茶碗に口をつけ、ボソリと付け加えた。
「……私は、君を誰よりも重宝しているもの。……だから、余計な自己評価の低下でパフォーマンスを落とさないで。非効率だわ」
ぶっきらぼうな、彼女なりの慰め。それでも僕のことを何よりも大切に考えてくれているのが伝わってくる。
「……そっか。そうですね。すみません」
「高丘くん、君は間違いを犯したわけじゃないでしょう。謝る必要はないわ」
「それじゃあ……ありがとうございます」
「そうね。その方が日本語としてはおそらく正しいわ」
美鈴はなぜだか嬉しそうに微笑んだ。
僕は涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。泣きそうになっているのを彼女に悟られまいとして慌てて白米をかき込む。今日のご飯はいつになく温かく感じられた。
胸の奥に仕舞い込んでいた冷たい記憶が、ようやく消えていくのが分かった。
しかし、そんな穏やかな食卓を壊す影は、すぐそこまで迫っていた。翌日、学校の階段で、僕は最悪の事態に巻き込まれることになる。




