第10話:嵐の予感。契約を脅かす視線
平和な時間は、いつも音を立てずに壊れ始める。
学校の駐輪場。自転車に鍵をかけながら、僕は今日の献立について考えていた。昨夜、美鈴が「脳の活性化にはDHAだけでなく、適度なスパイスによる刺激が必要だ」とか何とか理屈をこねていたから、今夜はキーマカレーにでもしてあげようか。
だが、校舎に入った瞬間、肌を刺すような違和感を覚えた。
「……おい、あれだろ?」
「まさかな。高丘だぞ? 何かの見間違いだろ」
すれ違う生徒たちが、あからさまに僕を見てヒソヒソと囁き合っている。昨日までの『秘密を共有している優越感』が、一気に『暴かれようとしている焦燥』へと変色していく。
僕は平静を装って教室に向かおうとしたが、階段の踊り場で進路を塞がれた。
「――高丘。ちょっといいか」
声をかけてきたのは、学級委員の長谷川だった。真面目さだけが取り柄のような男だが、実は天ノ川美鈴の熱狂的な信奉者としても知られている。その後ろには、数人の男子生徒が険しい表情で控えていた。
「どうしたの、長谷川くん。もうすぐ予鈴が鳴るよ」
「……質問は一つだ。昨日の夜、お前はどこにいた?」
心臓がドクンと跳ねた。脳裏に、スーパーの帰り道、僕の袖を掴んで歩いていた美鈴の姿が浮かぶ。
「どこって、普通に買い物して帰ったけど……」
「嘘をつくな! 目撃した奴がいるんだ。……駅前の超高級タワーマンション、『スカイ・アーク』。そこにお前が、天ノ川さんと二人で入っていくのをな!」
長谷川の叫びに、周囲にいた生徒たちが足を止めた。
静まり返る廊下。全校生徒の憧れである『氷姫』が、何の接点もないはずの貧乏苦労人、高丘玲於奈と高級マンションへ。その情報が持つ破壊力は、僕が想像していたよりもずっと大きかったようだ。
「高丘。お前……天ノ川さんの弱みでも握って、脅してるのか? それとも……」
長谷川が詰め寄ってくる。その瞳には、純粋な怒りと、それ以上のドロドロとした嫉妬が渦巻いていた。
「あんな高層マンションにお前みたいな奴が住めるわけがない。天ノ川さんと一緒に夜を過ごしたって? ……そんなの冗談じゃない。お前のような貧乏学生が、俺らの聖域に触れていいはずがないんだ!」
言い返そうとしたが、言葉が喉に詰まった。契約のことを話せば、彼女のプライバシーを侵害することになる。かといって黙っていれば、疑惑はさらに深まるだけだ。
その時、人混みの向こうから、冷ややかな空気が流れてきた。美鈴だ。彼女はいつも通りの無表情で、騒ぎの中心へと歩み寄ってくる。
(……ヤバい。天ノ川さん、今は来ないで!)
僕の願いも虚しく、彼女は長谷川の目の前で足を止めた。
長谷川は期待に満ちた目で、「さあ、この無礼な男を否定してください」と言わんばかりに彼女を見つめる。
だが、美鈴の口から飛び出したのは、その場の全員の予想を斜め上に突き抜ける言葉だった。
「……君、なんという名前だったかしら」
「は、長谷川です……」
「そう。……長谷川くん。君のその行動は極めて非生産的よ。私の『資産管理』に他者が介入する余地はないわ」
「え……? 資産、管理……?」
美鈴は僕の隣に並び、周囲の視線を一蹴するように言い放った。
「高丘くん。今日の夕飯だけど、予定を変更して。カレーのスパイス濃度を三パーセント上げてちょうだい。……今の私の不快指数を相殺するには、それくらいの刺激が必要だわ」
校内に、悲鳴に近いどよめきが走った。親しげな呼び方。そして、当然のように語られる夕飯の約束。
長谷川の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼は震える指先を僕に向け、絞り出すような声で言った。
「……高丘、お前。……天ノ川さんと、一体どういう関係なんだよ!?」
突きつけられた剥き出しの疑惑。僕たちの『合理的生存戦略』が、最大の危機を迎えた瞬間だった。




