第11話:論理的回答は「人生のマネジメント契約」
長谷川の悲鳴に近い問いかけが、静まり返った廊下に反響する。
「……高丘、お前。……天ノ川さんと、一体どういう関係なんだよ!?」
好奇と嫉妬、そして困惑。数十人の視線が僕の背中に突き刺さり、逃げ場のない圧迫感に冷や汗が流れる。
しかし、僕の隣に立つ銀髪の天才は、眉一つ動かさなかった。美鈴はゆっくりと視線を上げ、長谷川を――いや、そこにいる有象無象の全生徒を、顕微鏡の先の微生物でも見るような冷徹な目で見据えた。
「ええっと……長谷川くん、と言ったかしら。君のその脳内プロセスの脆弱さには、正直なところ失望を禁じ得ないわ」
「えっ……な、天ノ川さん?」
「高丘玲於奈が私とどういう関係か? そんな明白な事実に、これほどのリソースを割くなんて非効率の極みね。いい、一度しか言わないから、君たちの低スペックなキャッシュにしっかり保存しておきなさい」
美鈴はスッと指を立て、僕を指し示した。
「高丘玲於奈は、私の生活基盤を最適化する『エグゼクティブ・ライフマネージャー』よ。私の知的生産性を最大限に引き出すための、極めて重要かつ代替不可能な資産。それが彼に対する私の定義であり、公的な契約関係よ」
――エグゼクティブ・ライフマネージャー。
廊下のあちこちで「えっ、エグゼ……なに?」「マネージャー?」「秘書ってことか?」と困惑の呟きが漏れる。
「……ま、待ってください! え、エグゼクティブ・ライフマネージャーって、要するに……ただの、お手伝いさんってことですか?」
長谷川がおずおずと尋ねると、美鈴は「はぁ」と、大仰な溜息をついた。
「君たちは、人類の至宝とも言える私の脳が、洗濯機のボタンを押したり、スーパーのタイムセールに並んだりすることに時間を使うべきだと本気で思っているの? それは国家、あるいは人類単位での大きな損失よ。だから私は、家事というノイズを完全にシャットアウトするために、この分野において卓越したスキルを持つ高丘玲於奈を独占契約で雇用した。……それだけの話よ。そこに不純な要素が入り込む余地なんて、数式上どこにも存在しないわ」
普段ならば決してしないであろう偉ぶった口ぶり。生徒たちに対してあえて自分を理解しがたい奇異な存在として見せようとしているのだろう。
効果は覿面だった。あまりに堂々とした、そしてあまりに飛躍した『天才の論理』。生徒たちは顔を見合わせた。
「……なるほど、つまり。天ノ川さんは研究が忙しすぎるから高丘を『公式の助手兼、身の回りの世話係』として雇ってる……ってことか?」
「な、なんだ。てっきり付き合ってるとか、そういうアレかと……」
「高丘のやつ、天ノ川さんの家の掃除とかさせられてるのか。大変だな、あいつも……」
ざわめきが、急速に納得と、僕への同情へと変わっていく。
天才・天ノ川美鈴が言うのだから、きっとそういうことなのだろう。彼らにとって、彼女はもはや自分たちとは違うルールで生きている人間なのだ。
「……行くわよ、高丘くん。夕飯の献立に関するミーティングを始めたいわ」
「……は、はい。分かりました、天ノ川さん」
不本意ながらも仕方なく雇われているような苦労人のフリをして、僕は彼女の後を追った。
「ところで天ノ川さん。どこに行くんですか。そろそろ授業始まりますよ」
「こうでも言わないと群衆から君を引き離すことができないでしょう」
美鈴は自分の教室の前で立ち止まると穏やかに微笑んだ。
「高丘くん。私、今日は歩いて帰るわ。また放課後に」
***
校内ではどこに人の目があるか分からない。美鈴とは結局あれ以上詳しい話をすることはできなかった。
放課後。校門を出て、駅へと向かう道すがら。周囲に人気がなくなったのを確認して、僕は大きく息を吐き出した。
「……あ、あの。エグゼクティブ・ライフマネージャーってなんですか。あんなの、学校中で言いふらして良かったんですか?」
「……ふん。事実でしょう? 君は私の生活を管理し、私は報酬を支払う。これ以上に論理的で完璧な説明はないわ」
美鈴は前を向いたまま、ツンとした口調で答える。だが、その歩調はいつもより少しだけ軽やかに見えた。
「それに……」
「それに?」
美鈴は足を止め、ふいっと顔を逸らした。夕日に照らされた銀髪の隙間から、彼女が少しだけ満足げに口角を上げているのが見えた。
「……これで、他個体による君への干渉は激減したはずよ。君の所有権……いえ、使用権が私にあることを明確にしたのだから。これは今後の共同生活を円滑に進めるための、極めて論理的な防御策よ」
(防御策、かぁ……)
理屈を並べてはいるが、要するに彼女は、僕が学校で変な噂を立てられたり、問い詰められたりするのが嫌だったのだろう。あるいは、僕の周りに他の生徒たちが群がるのを、彼女なりに『排除』したかったのか。
自分が生きているうちに他人からこんな感情を向けられる日が来るとは思わなかったから、なんだか不思議な感じがする。胸に小さな灯りが灯ったようだった。
「ありがとうございます、天ノ川さん。……天ノ川さんってもしかしてそれなりに僕のことを気に入ってくれてたりします?」
「もちろんよ。高丘くんの有用性は十分に理解しているわ」
「いえ、そうではなくて。なんというか……人としてそこそこ好きでいてくれてるのかなって」
「好……っ。 と、突然、突拍子もないことを言うのはやめてちょうだい。心拍数にノイズが走るでしょう」
顔を真っ赤にして早足で歩き出す彼女を見て、僕は小さく笑った。
嵐はひとまず去った。
だが、僕のポケットの中。マナーモードのスマホが、一度だけ静かに震えたことに、僕はまだ気づいていなかった。




