第12話:放課後タワマン・スタディ
放課後の図書室。夕食の準備をするまでにはまだ間があったから帰宅前にテスト勉強に勤しむつもりでいた。しかし、僕は開いたままの参考書を前に、小さく溜息をつくことになった。
「……なんだか視線が、痛いな」
美鈴のエグゼクティブ・ライフマネージャー宣言から数日。騒ぎは沈静化したものの、僕が一人でいれば、どこからともなく好奇の視線が飛んでくる。これでは勉強に集中しろという方が無理な話だ。
いつの間にか背後に立っていた美鈴が、僕のノートをパタンと閉じた。
「……移動するわよ、高丘くん。ここは学習に適した環境係数を大幅に下回っているわ」
彼女はそのまま僕の腕を掴み、有無を言わさぬ足取りで校門へと向かった。
***
連れてこられたのは、自宅マンションのリビングではなく、さらに奥にある美鈴の自室だった。
「……ここなら、誰にも邪魔されないわ。私のパーソナルスペースを、君の学習効率向上のために開放してあげる」
そこは、数台のマルチモニターが淡い光を放ち、壁一面が物理学や数理科学の洋書で埋め尽くされた、まさに天才の工房だ。普段から僕が行き届いた掃除をしているため、機械だらけなのに不思議と清潔で落ち着く空間になっている。
「これを使いなさい。私が昨日、君の弱点箇所を分析して組んだ『超高速学習支援AI』よ」
「天ノ川さん、僕の知らない間に何してるんですか……?」
「文句を言うのは実際に使ってみてからにしてちょうだい」
手渡されたのは、薄いタブレット端末。
画面に『Leona_Study_Optimization_v1.02』という文字。試しに解けない数学の問題をカメラにかざすと、AIが僕の思考の癖に合わせた最適な解法を、驚くほど分かりやすく解説し始めた。
「……すごすぎです。これ、予備校の講師が要らなくなりますよ!」
「当然よ。私の脳の思考プロセスを一部模倣しているもの。……さあ、私は隣で論文の査読を続けるわ。君は自分のタスクに集中して」
美鈴は隣のデスクに座り、カタカタと静かなタイピング音を響かせ始める。僕も、タブレットを手に鉛筆を走らせた。
――静かな時間だった。
聞こえるのは、空気清浄機の低い唸りと、鉛筆の音、そして彼女のタイピング音だけ。
不思議な感覚だ。一人でいる時よりも、誰かと――それも『天ノ川美鈴』という巨大な存在が隣にいる時の方が、ずっと深く集中できる。
ふと、隣の音が止まった。何気なく視線を向けると、美鈴が作業を止めてこちらを見ていた。
「……どうしたんですか、天ノ川さん。バグでも出ました?」
「……いいえ。……その逆。全くノイズがないわ」
美鈴は少し戸惑ったように、自分の胸元を片手で押さえた。
「これまでの私の部屋は、ただ『思考を処理する場所』でしかなかった。でも、君が隣で鉛筆を動かしている音が……私の脳にとって、最適なホワイトノイズとして機能しているみたい。……計算速度が、異常なほど安定しているの」
彼女はそう言って、少しだけはにかんだように目を細めた。しかし、その瞳には強烈な睡魔の気配が混じっている。連日の研究に加え、僕の隣で得た安心感が、彼女の警戒心を完全に溶かしてしまったようだった。
「……高丘くん、少しだけ……同期していいかしら」
「同期? 何のですか?」
返事はなかった。
代わりに、僕の右肩に、ふわりと柔らかな重みが加わった。美鈴が、僕の肩に頭をこてん、と乗せたのだ。
銀髪の毛先が僕の首筋をくすぐり、彼女の静かな寝息が聞こえてくる。
「……っ!?」
鉛筆を持つ手が、凍りついた。
至近距離から漂う、清潔な石鹸の香りと、彼女の体温。規則正しい寝息に合わせて、彼女の華奢な体が僕に密着し、逃げ場のない甘い圧迫感が全身を襲う。
僕の心臓は、もはやノイズどころではない騒音を立て始めていた。ドクン、ドクンと、肋骨を突き破りそうなほどの鼓動。それが、肩を通じて彼女にも伝わっているのではないかと気が気でない。
(……何、この状況!? 全く勉強に集中できないんですけど……!?)
さっきまで高性能AIが解説していたはずの数式が、ただの記号の羅列に見える。
右肩で眠る『人類の至宝』の存在があまりにも重すぎて、僕の思考は完全に硬直した。
(……エグゼクティブ・ライフマネージャー、だっけか。……天ノ川さん。これ、どっちがどっちを管理してるんですかね……)
僕は、参考書を閉じることさえできないまま、ただ固まることしかできなかった。




