第13話:秘書の監査と契約外の真心
日曜の午前中。インターホンの音とともに現れたのは、美鈴の秘書――春崎だった。
「……失礼します。抜き打ち監査に伺いました」
彼女は玄関をくぐるなり、手に持っていたタブレットを落としそうになって固まった。
「……高丘くん。これ、本当に同じ部屋ですか?」
「はい、ちゃんと掃除してますから。これでも一応お給料をもらって仕事としてやっているプロですからね」
かつての魔窟は、今や塵一つない最高級の居住空間として機能している。空気清浄機が静かに回り、窓からは柔らかな陽光が差し込んでいた。
春崎は恐る恐るリビングへ進み、そこで朝食後のコーヒーを飲んでいる美鈴を見て、二度目の衝撃を受けたようだった。
「せ、先生……? その、ツヤツヤした顔色は一体……!」
「春崎、声が大きいわ。……現在は食事による栄養摂取率が最適化され、皮下組織の水分保持量が前月比一二〇パーセントを記録しているだけよ。驚くような事象じゃないわ」
美鈴は澄ました顔で答えるが、その頬は健康的な桜色に染まり、瞳には生命力が溢れている。かつての『死にかけの天才』の面影はどこにもなかった。
自身の健康状態や食生活のことについてあれこれ言及されて居心地が悪くなったらしい。美鈴はコーヒーを飲み終わるとさっさと自室に引き上げていく。
呼び止めようと苦心していた春崎は、そのうちに諦めて僕に向き直った。
「……高丘くん、君は素晴らしいです。想像以上の『奇跡の職人』ですね」
春崎は感動に震える手で、カバンから一通の封筒を取り出した。
「これを受け取ってください。契約外の『特別効率化報酬』です。君のおかげで先生のプロジェクトは予定より三週間も前倒しで進んでいます。その価値に比べれば、これでも安いくらいです」
厚みからして、数十万円は入っているだろう。
かつての僕なら、迷わず飛びついていたはずの金額だ。だが、今の僕はそれを静かに押し返した。
「……すみません、これは受け取れません。お給料はもう十分すぎるほどもらってますから」
「ですが、これは正当な評価ですよ」
「僕は仕事として当然のことをしているだけです。……でも、もしその予算を僕の代わりに使ってもらえるなら、一つお願いがあるんです」
春崎が「お願い?」と眉を上げる。
「天ノ川さんが、最近ずっと論文を読みながらぼやいてたんです。『このレーザー分光計の分解能じゃ、理論の証明にコンマ一秒の遅延が出る』……とかなんとか。僕にはよく分からないですけど、彼女が欲しがっているその機材、今回の予算で買ってあげられませんか?」
春崎は絶句した。自分の懐に入れるはずの金を、雇い主の少女の仕事道具に変えてくれというのが余程彼女の動揺を誘ったらしい。
「……それは、君への報酬なんですよ? 君が新しい服を買ったり、友人と遊びに行ったりするための金銭です」
僕は少し躊躇ってから言い訳を口にする。
「実は僕、この前天ノ川さんに大口を叩いちゃったんです。食費を節約して少しずつお金を積み重ねていけば天ノ川さんの研究の本や機材を買うのに役立てられるんじゃないかって。……でも、実際はそんなの何年かかるか分からないじゃないですか。もしも天ノ川さんが期待してたら申し訳ないなってずっと思ってたんです。だから、今回の件はちょうどいい機会だなって」
「そうは言ったって……」
「それに、僕はここで彼女と一緒に美味しいご飯が食べられているだけで満足ですから」
僕は照れ隠しに笑って、立ち上がった。
「……お茶もお出しせずにすみません。春崎さんもコーヒーでいいですか?」
この会話が、廊下の陰に届いているとは知らずに僕はそそくさとキッチンに向かった。
***
扉のすぐ裏側。美鈴は壁に背を預け、自分の胸元を強く握りしめていた。
「何よ、それ。私のため……? どうしてそんなに私のことばかり……」
心拍数が急上昇し、顔面に向かって血液が猛烈な勢いで送られている。
脳内の計算回路が、自分に向けられた『純粋な善意』を処理しきれず、激しい熱を帯びていた。
「……未知の熱力学的バグだわ。外部からのエネルギー供給なしに、これほどの熱量が発生するなんて……論理的に説明がつかない……」
そう呟く彼女の顔は、朝食のトマトスープよりも真っ赤に染まっている。
それは、どんな科学式でも解明できない、彼からの『真心』という名のバグだった。
彼女は一人、自分の頬がどれほど熱いかを確かめるように両手で覆い――誰にも見せられないような、不器用な笑みを浮かべた。




