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第14話:雨の車内、同期(シンクロ)する体温

 空が割れたような、唐突な土砂降りだった。


 放課後の昇降口。僕は灰色のカーテンのように降り注ぐ雨を眺め、立ち往生していた。


 天気予報のチェックを怠るなんて、エグゼクティブ・ライフマネージャー失格だ。


 ずぶ濡れになって走れば、マンションまで十五分。だが、この雨脚では家に着く頃には、文字通り水浸しの濡れ鼠になるだろう。


(……昔なら、迷わず走ってたなぁ)


 濡れて体温を奪われ、暗い部屋で一人、震えながら夜を越す。それが当たり前だった。


 だが、今は帰る場所がある。僕の帰りを待つ――正確には、僕の作るご飯を待つ少女がいる。


 濡れて体調を崩すわけにも、雨宿りをして夕飯の支度を遅らせるわけにもいかない。全速力で最寄りのコンビニまで走り、傘を買う。これしかない。


 そう決意して走り出そうとした時だった。


 水飛沫みずしぶきを上げて一台の黒塗りの高級セダンが、校門の前に滑り込んできた。


 周囲の生徒たちが「何だ、あの車?」とざわめく中、後部座席のウィンドウが静かに降りる。


「……高丘くん、ぐずぐずしないで。速やかに搭乗しなさい」


 冷徹な響きを含んだ、聞き慣れた声。そこには、いつも通りの無表情で、しかしどこか苛立ちを隠しきれない様子の美鈴が座っていた。


「天ノ川さん!? 何でここに……」

「質問は非効率よ。君が雨に濡れて低体温症ハイポサーミアにでもなれば、私の今夜の食卓、および明日以降の生存戦略に多大な損害が出るわ。……早く乗りなさい。これは命令よ」


 僕は促されるまま、重厚なドアを開けて車内へと逃げ込んだ。密閉された空間。高級な本革の香りと、彼女が纏う清潔な石鹸の香りが混ざり合う。


「……すみませんでした。傘を忘れるなんて、管理担当者として論理的に破綻してましたね」

「ええ、全くよ」


 美鈴は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、手元にあった厚手のタオルを俺の頭にバサリと被せた。そして、驚くことに彼女自身の手が、僕の頭をき始めた。


「……じ、自分でやりますよ!」

「黙って。君の手は今、外気温で冷却されすぎて毛細血管が収縮しているわ。私が拭いた方が、熱伝導率の観点からも合理的よ」


 美鈴の手は、乱暴だった。ガシガシと、まるで子供を扱うように僕の頭をき回す。だが、その指先が耳元やうなじに触れるたび、そこからじんわりと、彼女の確かな熱が伝わってきた。


 窓の外では、叩きつけるような雨音が響いている。だが、この狭く薄暗い後部座席の中だけは、外の世界から切り離されたシェルターのようだった。


「……高丘くん、こっちを向いて」


 不意に、タオルの動きが止まった。促されるまま視線を向けると、美鈴がすぐ目の前にいた。彼女は僕の濡れた頬に、そっと、熱い手のひらを添えた。


「……天ノ川さん?」

「……私の指先の末梢神経が、君の異常な熱を感知しているわ。悪寒は? 脳内での思考速度に遅延は発生していない?」


 彼女の瞳が、至近距離で僕を射抜く。それは分析者の目でありながら、同時に、大切な宝物の傷を確かめるような、痛々しいほど切実な光を宿していた。


「大丈夫ですよ。天ノ川さんがすぐに拾ってくれたおかげです」

「……そう。なら、最終的なキャリブレーションを行うわ」

「キャリ……何ですか?」


 美鈴は顔をさらに近づけてきた。僕の頬を包む彼女の手が、微かに震えている。


「君の体温を、私のデータに同期シンクロさせたいの。……そうすれば、君に異常が起きた時、私が一番に気づけるでしょう?」


 雨音は、もう聞こえなかった。


 ただ、狭い車内。同期しようとしているのは、体温だけではない。加速する鼓動と、熱を帯びた吐息。


 互いの境界線が曖昧になるほどの緊張感の中で、僕は彼女の瞳に映る、自分自身の動揺を見つめ返すことしかできなかった。


 美鈴の手のひらから伝わる熱が、冷え切った僕の肌にじわりと浸透していく。


 至近距離で見つめ合う。彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど深い銀色を湛え、そこには逃げ場のない真剣さと、わずかな戸惑いが揺れていた。


 雨音さえ遠のくような、濃密な静寂。


 僕の心臓が、自分でも驚くほど激しい音を立てていた。トクン、トクンと、狭い車内にその振動が漏れ出しているのではないかと錯覚するほどに。


「……天ノ川さん」

「……っ」


 僕がその名を呟いた瞬間、美鈴の肩が小さく跳ねた。


 弾かれたように、彼女の手が僕の頬から離れる。


「……データの収集は、完了したわ。現在の君の体温上昇率は、低体温症の懸念を完全に払拭ふっしょくしている。……いえ、むしろ上昇しすぎているわね。心拍数も異常値だわ。……不合格よ」


 美鈴は顔を背け、膝の上に乗せた自分の手をギュッと握りしめた。指先が、まだ僕の頬の感覚を覚えているかのように小刻みに震えている。


 窓の外を向いた彼女の横顔は、雨に濡れた街灯の光に照らされ、耳の先まで真っ赤に染まっていた。


「……天ノ川さんのせいですよ。あんな距離で触られたら、誰だって動悸くらいします!」

「……論理的思考の欠如ね。私はただ、管理担当者のコンディションを最適化しようとしただけよ。……それ以外の解釈は、ノイズとして棄却しなさい」


 強気な言葉とは裏腹に、彼女の声はどこか上ずっていた。


 その後、車内には何とも言えない、重苦しくも熱を帯びた沈黙が流れた。革張りのシートに深く身を沈める僕と、窓の外を一心に見つめ続ける美鈴。聞こえてくるのは、フロントガラスを叩く激しい雨音と、ワイパーが時を刻むような規則正しい作動音だけ。


 エアコンから吹き出す微かな風が、逆に二人の間の熱を際立たせているようで、僕はやり場のない手の置き所に困り、ただ膝の上のタオルを握りしめた。さっき触れられた場所が、今もずっと熱い。


 やがて、車がマンションの地下駐車場に滑り込む。ドアが開く瞬間の涼しい空気に、ようやく息が吸えるような気がした。


「……高丘くん」

「何ですか?」


 車を降りる直前、美鈴が背中を向けたまま、消え入りそうな声で言った。


「……今日の夕飯、体が温まるものにして。……それ以外の要求は、今日は、もうしないから」


 それが彼女なりの、精一杯の休戦協定だったようだ。


 僕は、彼女の華奢な背中を見つめながら、小さく「分かりました」と答えた。


 僕たちの契約関係に、数式では導き出せない不確定な熱が混じり始めたことを、どうしても意識せずにはいられなかった。

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