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第15話:浄化された世界の真ん中で

 スマートフォンの画面に並んだ、500,000という無機質な数字。開いているのは銀行口座アプリだ。天ノ川美鈴(あまのがわみすず)のもとで住み込み家政夫として働き始めてからちょうど一ヶ月。給与は契約通りに全額振り込まれていた。


 一ヶ月前、公園の水を飲んで飢えを凌いでいた僕が見れば、腰を抜かして狂喜乱舞したであろう金額だ。家賃の心配も、明日食べるものに困る恐怖も、本当に全てが過去のものになった。


 だが、今の僕の胸を占めていたのは、達成感でも、金を手にした高揚感でもなかった。


「……高丘くん。この豚汁、味噌の銘柄を変えたかしら。大豆の――あれ。味噌の原料は大豆よね?」

「大豆で合ってますよ」

「そう、良かった。大豆の発酵による深みが、前回のものより数パーセント向上しているわ」


 目の前で、銀髪を少し揺らしながら、熱々の椀を大事そうに持つ美鈴。


 一口(すす)るたびに、彼女の頬がふわりと緩む。かつての冷徹な『氷姫アイスドール』の面影はない。


「はい。スーパーで良さそうな味噌があったので試しに変えてみました。……おかわり、要ります?」

「ええ。計算上、あと一杯分は美味しく摂取できる余裕があるわ。……お願い、高丘くん」


 微笑んで差し出される空の椀。その温もりを受け取った時、僕は気づいた。


 僕がこの一ヶ月で手に入れた本当の価値は、通帳に刻まれた数字ではない。


 誰かに必要とされ、誰かのために温かいご飯を作る。そんな当たり前の、けれど僕がずっと持てなかった居場所そのものなのだ。


***


 夕食後、僕たちはどちらからともなく、リビングから続く広いベランダへ出た。


 地上数百メートル。眼下には、宝石をぶちまけたような東京の夜景がどこまでも広がっている。


 一ヶ月前、この部屋はゴミに埋もれた魔窟だった。僕が拾われ、掃除をし、料理を作り、彼女の理屈っぽい我儘わがままに付き合ってきた日々が思い起こされる。


「……ねえ、天ノ川さん」

「なに、高丘くん。現在の外気温は十六度。長時間の観測は風邪のリスクを伴うわよ」

「すみません、少しだけ。僕は……本当にこれからもここにいていいんですよね。あくまで契約上の関係だというのは分かってます。でも、なんていうか、そういうのじゃなくて……」


 ずっと聞けなかった言葉が、夜風に混じってこぼれ落ちる。


 親に捨てられた僕にとって『ここにいていい』という確証は、何よりももろくて壊れやすいものだった。


 それを言葉にしようとした瞬間、恐怖と後悔が急に襲ってきた。両親に捨てられたあの日、テーブルの上にあった書き置きが脳内で鮮烈に蘇る。


 人はいつどんなきっかけで他人に見限られるか分からない。そして、見限られてからでは何もかも遅いのだ。


 僕は、苦しげな声を絞り出した。


「……変なことを聞いてすみません。やっぱり今の言葉は忘れてください。自分の仕事は分かっているので大丈夫です! これからも一生懸命ご飯を作ったり掃除したりしますから!」


 美鈴は夜景を見つめたまま、しばらく沈黙していた。


 やがて、彼女はゆっくりと僕の方を向き、いつになく真剣な、それでいて柔らかな眼差しを向けてきた。


「……高丘くん。私は論理的でないことは言わないわ。君というリソースを失うことは、私の人生において致命的なシステムダウンを意味するの。……だから」


 美鈴は少しだけ躊躇ためらうようにして、自分の小さな手を、僕の手に重ねた。


「……契約は継続。いえ、……無期限の更新を強く推奨するわ。君が拒否しても、私の全知能と全財産を使って阻止してみせる。……いいわね?」

「え、ええっと。つまり……?」

「……理解力が足りていない? いえ、私の言い方が悪いのかしら。そうね。今の言葉選びだと感情が上手く伝わらないみたい」


 彼女は思案するように自身のこめかみに指を当てた。


「そうね。……ところで、高丘くん」

「は、はい」

「君は、どうして敬語なのかしら。私たちが出会ってからずっとそうよね?」

「そ、それは……天ノ川さんは僕の雇用主なので……」

「敬語じゃなくていいわ」


 彼女はあっさりと言ってのけた。


「そ、それはどういう……」

「敬語は使わなくていい。雇用主とか、そういうのは関係ない。あなたが望むなら契約を更新……違う。この言葉でもないわね」


 彼女はもどかしそうに視線を宙にさまよわせる。


「……私には、あなたが必要よ。あなたも望むなら、ここにいなさい。……好きなだけ、いつまでだって。ここにいていいわ」


 強気で、不器用で、けれどこれ以上ないほど切実な必要性の告白。重ねられた手のひらから、ドクンドクンと速い鼓動が伝わってくる。


 僕は、真っ直ぐに彼女を見る。意を決して。


 敬語をやめた。


「……わ、分かった。僕も、あなたのお世話をするのは……嫌いじゃないから。これからも、よろしく」

「変な喋り方。ぎこちない」


 美鈴はおかしそうに笑う。


 心臓がどくどく鳴っている。破裂しそうだ。顔が熱い。今頃きっと真っ赤になっているのだろう。


「笑わないでくださいよ、天ノ川さん。……敬語を取るのは少しずつ慣れていく感じでもいいでしょうか」

「仕方ないわ。今日はそれで許してあげる」


 どちらからともなく、指が絡まる。握りしめた手の温かさが、夜の冷気の中で何よりも確かだった。


 孤独だった二人の世界が、契約という名の絆で浄化され、ようやく一つの家になった瞬間だった。


***


 夜景を堪能し、美鈴を寝室へと見送った後。僕は片付けのために、明かりを落としたリビングへ戻った。


 テーブルの上に置き忘れていたスマートフォン。その暗い画面が、ふっと一度だけ短く震え、青白い光を放った。


『通知:不在着信(1件)番号非通知』


 一度も鳴ることのなかった、僕の孤独な端末。そこに刻まれた不穏な一報に気づくことなく。


「……さて、明日の朝ご飯は何にしようかな。フレンチトーストとかいいな」


 僕は明るいキッチンの方へと歩き出す。


 浄化された世界に、微かな、けれど逃れようのない嵐の予感が混じり始めたことに、まだ誰も気づいていなかった。


第1章「契約と浄化編」 完

第2章「甘すぎる日常と学校生活編」に続く

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