第16話:一日三回、彼女をハグする仕事
あの夜、マンションのベランダで僕と美鈴はごく間近で見つめ合いながら手を重ね合わせ、指を絡めた。
彼女の家で住み込み家政夫として働くようになってから約一ヶ月。妙な状況になってきたと自分でも思う。
彼女とはあくまでも雇用関係であり、お付き合いをしているというわけではない。――わけではないのだが、あの瞬間が僕にとって特別に感じられる時間だったのもまた間違いなかった。
彼女が僕という存在を認めてくれ、いつまでもこの場所にいていいと言ってくれたのは本当に嬉しい出来事だった。だからこそ絶対に変な勘違いなどしてはいけない。僕はそう自分に強く言い聞かせていた。
彼女が向けてくれている好意はあくまでも住み込み家政夫に対しての――彼女風に言うならばエグゼクティブ・ライフマネージャーとやらに対してのものだろう。やたら距離が近いから勘違いしそうになる時はある。しかし、異性として好いてもらえているなどと履き違えて彼女からの信頼を裏切るわけにはいかない。
あの夜の突発的な至近距離での接触を経験してから数日。僕はただ無心でキッチンの掃除をしていた。シンクがピカピカになっていくのを見ると雑念さえも消えていくような気がする。
一方の美鈴はといえばリビングの大型モニターの前で、なぜだか目に見えて不調に陥っているようだった。
「……はぁ。またコンパイルエラー。変数の初期値が狂っているのね」
いつもなら、キーボードを叩く音はまるで機関銃のようだったのに、今の彼女のタイピングはどこかぎこちない。おまけに、五分に一度は大きく溜息をつき、画面の数式ではなく、自分の手のひらをじっと見つめてはフリーズしている。
僕はキッチンでの片付けを終え、温かいハーブティーを入れたマグカップを彼女のデスクに置いた。
「天ノ川さん、最近ちょっと根を詰めすぎじゃないですか? 疲れが溜まっているなら今日はもう諦めて寝た方がいいですよ」
「却下よ。……それに、原因はオーバーワークじゃないわ」
美鈴は椅子の背もたれに勢いよく寄りかかり、くるりとこちらを向いた。その顔は、なぜか湯気の立つハーブティーよりも真っ赤に染まっている。彼女は鋭い、けれどどこか潤んだ瞳で僕をギロリと睨みつけた。
「……君のせいよ、高丘くん」
「僕? 何か料理の味付けでも失敗してました?」
「食事の栄養素は常にパーフェクトよ。そうじゃなくて……その、先日行われた、家のベランダでの『非定常な身体接触』のことよ」
美鈴は机をドンと叩き、立ち上がって僕に詰め寄ってきた。またしても至近距離。あの夜の、石鹸の香りと彼女の華奢な体温の記憶が、僕の脳裏にも一気にフラッシュバックする。
「あの突発的なイベントのせいで、私の脳内でオキシトシンとドーパミンが予測不可能な乱高下を起こしているの。結果、私の思考モデルに甚大なノイズが発生し、ここ数日の研究効率が通常時を大幅に下回るというバグが発生しているわ。……これは由々しき事態よ」
「いや、ノイズって……そんなに嫌だったなら、もう不用意に触らないように気をつけますけど」
僕が少し気まずくなって一歩引こうとすると、美鈴は「違うわ」と、さらに一歩踏み込んできた。
「触らないのが正解ということではないの。一度分泌された脳内物質の報酬系を完全に遮断すれば、今度は深刻な『依存症』の症状が予測されるわ。現に、君がキッチンにいる間、私の視覚センサーが断続的に君の座標を追尾してしまうという、奇妙な挙動が確認されているのよ」
それは、ただ単に僕のことを視線で追っていたということではないだろうか。理屈っぽく武装してはいるが、要するに彼女は、あの至近距離での接触の余韻から抜け出せずに悶々としていたらしい。
あの出来事は彼女にとっても何かしら思うところがあったようだ。とはいえ、面と向かってそんな風に言われるとこちらまで照れ臭くなってくる。
「じ、じゃあ、一体どうしろって言うんですか」
「簡単よ。不確定要素を排除するための、最も合理的なアプローチ。――すなわち、ルーチン化よ」
美鈴はツンと口を尖らせると、手元にあったタブレットを僕の目の前に突き出してきた。画面には、妙に細かく作り込まれたタイムスケジュールが表示されている。
最上部には、仰々しいフォントでこう書かれていた。
――身体接触による恒常性維持計画表。
「……な、何ですか、これ」
「私のコンディションを常に最適な状態に保つための、新しい業務フローよ」
美鈴は真っ赤になった耳を隠すように髪を払い、堂々と、しかし指先を小さく震わせながら宣言した。
「朝・帰宅時・就寝前の1日3回、各60秒。これを『定時メンテナンス』として、私たちの生活習慣に組み込むことを義務化するわ。あらかじめ予定されたスケジュールであれば、脳内物質の分泌も予測可能になり、ノイズは発生しない。……これは、そう。君の月給50万円に含まれる、極めて重要な業務よ」
腕を組み、不機嫌そうな無表情を装いながら、じっと僕の返答を待つ美鈴。
つまり彼女は、理屈をこねくり回した結果――毎日3回、強制的にハグをするという、とんでもなく甘い縛りプレイを、自ら契約書に追加してきたのだ。
「ま、毎日3回ハグ!? 本気でやるんですか、これ!!?」
「……嫌なのかしら」
悲しげに視線を落とす美鈴。
胸がちくりと痛んだ。そんな顔をされては無下に断るわけにもいかない。
「べ、別に嫌ではないです……」
僕の返事を聞くと彼女は途端に声を弾ませる。
「言い方が不服そうね。『喜んでハグします』と言って」
「余計にやらされてる感が出ません?」
「いいから言って」
「喜んでハグさせていただきます……」
「敬語は要らないわ」
「無理です! 今のこの状況で敬語は取れません!」
僕のせめてもの抵抗。それでも彼女は満足げに頷いていた。
「まあ、いいわ。とにかくこれで決まりね」
冷静を装いながらも美鈴の表情からは嬉しさが滲み出ている。
――これから毎日、一日三回ハグ。
果たして僕の理性はいつまで保ってくれるだろうか。




