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第17話:午前7時30分、起動前キャリブレーション

 午前七時三十分。キッチンから出汁の香りが漂うリビングで、僕はタイマーの電子音と同時に手を止めた。


 カチリ、と正確にスマホの時刻が切り替わる。それとほぼ同時に、奥の寝室からパタパタと力ない足音が近づいてきた。


「……ん。タイムスケジュール通りね」


 現れた美鈴は、大きめのパジャマの袖から辛うじて指先をのぞかせ、半分寝ぼけた目で髪をボサボサに乱していた。いつも学校で見せる凛とした『氷姫アイスドール』の姿は微塵もない。


 しかし、その瞳だけは寝起きとは思えないほど真っ直ぐに僕をとらえていた。


「あの、天ノ川さん。本当にやるんですか? 昨日のはその場のノリというか、何かの冗談である可能性も考えてはいたんですけど」


 僕が腰のエプロンを整えながら苦笑すると、美鈴は不満そうに眉の端を寄せ、寝起きで少しかすれた声を絞り出した。


「冗談? 私が冗談で業務フローを改定するとでも思うの? ……いいから、早くして。私の脳がまだ起動モードに移行できなくて、視覚情報の処理にコンマ数秒の遅延が出ているわ」


 美鈴はそう言うと、パジャマの袖を広げて、その場にぽつねんと両腕を広げた。無表情だが、その耳の先端がうっすらと赤くなっている。


「……よし、分かりました。仕事ですもんね」


 僕は諦めて一歩歩み寄り、その小さな体をそっと両腕で抱きとめた。


 ――ぎゅっ。


 ぎこちない、朝の定時メンテナンスの開始。


 エプロン越しに伝わってくる、美鈴の少し高めの体温。朝の冷えた空気を吸い込んでいた僕の体に、彼女の温もりがじわりと染み込んでいく。


 昨夜、僕が念入りに掃除したリビングの、ほんのりと洗剤の香りが残る空気。それが二人の間を抜けていく。


「一秒、二秒、三秒……」

「こ、声に出して数えないでください。余計に照れ臭いじゃないですか」

「黙って、高丘くん。秒単位の正確性がこのオペレーションの肝よ。……君の体温、意外と高いのね。私の計算予測より、零点五度ほど高いわ」


 美鈴の細い腕が、おずおずと僕の背中に回される。


 密着した胸元から、トクン、トクンと彼女の規則正しい心音リズムが響いてくる。僕の心臓も、それに引っ張られるように速度を上げていく。


「……五十八秒、五十九秒、六十秒。タイムアップよ」


 きっかり一分。美鈴は名残惜しそうに――いや、意外とそうでもない。サッと素早く僕の胸から離れた。顔を背け、乱れた髪を直す彼女の横顔は、完全に真っ赤だ。


「……起動前キャリブレーション、完了。よし、今日の研究効率は期待できそうね。……君のホスピタリティに免じて、朝食の評価を星三つにしてあげるわ」


 そう言って胸を張る美鈴。これだけ赤くなっておきながら、あくまで強気なのが彼女らしい。


***


 数時間後、学校の渡り廊下。


 僕が次の教室へ移動するためにノートと教科書を抱えて歩いていると、向こうからクラスメイトたちに遠巻きに囲まれながら美鈴が歩いてくるのが見えた。


 学校での彼女は、完璧な『天ノ川美鈴(あまのがわみすず)』だ。皆が思う通りの天才女子高生そのもの。


 誰にも媚びず、冷徹で、近づきがたい美しさを放っている。さっきまで僕の胸の中でパジャマ姿で縮こまっていた少女と同一人物とは誰も思うまい。


(……学校で堂々と話しかけるわけにもいかないしなぁ)


 僕がごく自然な様子を装って、そのまま彼女の横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。


 すれ違いざま、美鈴が周囲にバレない絶妙な角度で、自分の腕時計をスッと指差した。そして、周囲のざわめきに紛れるような小さな、けれど僕の耳にははっきりと届く声で、こう呟いた。


「……十六時十五分。遅延は許されないわよ、高丘くん」


 それは、帰宅時メンテナンスという名のハグの予告。意識した瞬間、今朝感じた彼女の体の温もりが急に思い起こされた。

 

 通り過ぎていく美鈴の背中を見送りながら、僕は懸命に平静を装う。廊下の窓に映る自分の顔が、今朝の彼女と同じくらい赤くなっているのを、僕は必死に隠さなければならなかった。

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