第18話:遅延180秒によるペナルティハグ
放課後の教室。授業を終えて帰宅しようとした瞬間に学級委員に捕まり、僕は時計を見ながら冷や汗を流した。
現在時刻、十六時二分。高校から美鈴のマンションまではどんなに最速で帰ったとしても十五分はかかる。
美鈴と交わした『帰宅時メンテナンス』の約束は十六時十五分。つまり、このタイムスケジュールにはそもそも初めから無理があったのだ。だからといって初日からいきなり遅刻をするわけにもいくまい。
「高丘、この前の委員会の議事録なんだけど、ここの書式が――」
「ごめん、長谷川くん! 今それどころじゃないんだよ!」
「おい、待てよ、高丘。エグゼクティブなんとかマネージャーの仕事も大事かもしれないが、クラスの業務だって――」
「本当に今日はダメなんだって! また明日にして!」
「何をそんなに必死になってるんだよ。なんとかかんとかマネージャーの仕事って言ってもバイトみたいなもんだろ。それとも、お前まさか本当に天ノ川さんとデートでも――」
「違うし! 別に付き合ってるわけじゃないし! 今じゃない! 空気読んで!!」
背後からの呼び止めを振り切り、僕は猛ダッシュで校門を飛び出した。
いくらなんでも、ただのハグの遅刻でここまで必死になるのはどうかと自分でも思う。だが、あの理屈っぽくて面倒臭い天才少女を待たせたら、後でどんなお説教が飛んでくるか分かったものではない。
心臓をバクバクさせながら、駅前のマンションへ滑り込み、エレベーターに飛び乗った。エレベーターが登っていく時間がいまだかつてないほどに長く感じられる。
「なんでタワーマンションの最上階になんか住んでるんだよ、あの人……!」
エレベーターを飛び出し、息を切らせて部屋のドアを開ける。その瞬間、僕は玄関先で凍りついた。
「……遅いわ、高丘くん」
そこには、能面のように冷酷な無表情を張り付かせた美鈴が、腕を組んで仁王立ちしていた。
一歩間違えれば防犯システムが作動しそうなほどの威圧感。だが、じっくり観察すると、その小さな耳の先が、怒りからなのか別の理由からなのか、これ以上ないほど真っ赤に染まっているのが分かる。
「ごめんなさい! 長谷川くんに捕まっちゃって……! それに、このスケジュール、よくよく考えたら無理がありますよ!」
「言い訳は棄却するわ。電波時計による厳密な計測の結果、君は約束の時刻を正確に一八〇秒、超過した」
美鈴はスッと一歩、僕に近づいてきた。その瞳には、子供がへそを曲げた時のような、酷く頑なな光が宿っている。
「メンテナンスの遅延は、私の精神安定指数を著しく低下させたわ。現在、脳内でのネガティブフィードバックが警戒域に達している。……この生じた損害は、時間延長による加算で補填してもらうわよ」
「ペナルティ……?」
「ええ。通常六十秒のホメオスタシス調整を、今回は特別に『三分間』へと延長するわ。異論は認めない」
そう言い切るや否や、美鈴は僕の制服の胸元に、文字通り飛び込んできた。
とすん、という小さな衝撃。
僕の体に回された細い腕の力が、いつもより少しだけ強い。
「……ねえ、天ノ川さん。三分って、結構長いですよ」
「黙って、高丘くん。……私のセロトニンが規定値まで回復するまで、離れることは論理的に許されないわ。これは業務命令。君は大人しく、私のインフラとしての機能を果たしていればいいのよ」
美鈴は僕の胸に完全に顔を埋め、くぐもった声でそう言い放った。
三分。ただ抱き合っているだけにしては、あまりにも長すぎる時間だ。
玄関の静寂の中に、外を走る車の音が遠く微かに聞こえる。腕の中の彼女は小さくて、柔らかくて、さっき全力疾走したせいで高ぶっている僕の体温を、吸い取るようにぴったりと密着していた。
「……あの、そろそろ二分くらい経ったんじゃないですかね」
「まだ一分一秒よ。……時間感覚のバグを言葉で誤魔化さないで」
髪から香る甘いシャンプーの匂いが、僕の理性をじわじわと削っていく。
あまりの恥ずかしさに上を向いたその時、僕はあることに気づいた。僕の胸に押し当てられた、美鈴の小さな体。そこから、とくん、とくんと、驚くほど速いリズムが伝わってくる。
それは、全力疾走してきた僕の鼓動ではなかった。あんなに冷静な理屈をこねて、僕を『遅延の罪』で責め立てていたはずの彼女の心臓が、今、僕の胸の中で、僕と同じくらい激しく、狂ったような速度で脈打っている。
(もしかして……天ノ川さんも、すごくドキドキしてる……?)
ただの義務。ただのメンテナンス。彼女がそう言い張るシステムの裏側で、その本心がどれほど加速しているのかを、僕は嫌というほど知ることになってしまった。
(天ノ川さんのこのドキドキは、どういうドキドキなんだろう……。聞いてみたいけど……聞けるわけないよな)
沈黙だけが流れる中で、僕は彼女の細い体を優しく抱きしめ続けた。




