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第19話:就寝前、シャットダウンの甘い罠

 ――深夜零時。リビングの主照明は落とされ、大きな窓から差し込むタワーマンションの夜景だけが、部屋を淡く青白い光で満たしていた。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った空間で、僕たちは互いにパジャマ姿で向かい合っている。あとはそれぞれ自分の部屋に戻って眠るだけという、もっとも無防備な時間だ。


「……本日最後の、定時メンテナンスよ」


 美鈴の声は、昼間の刺々しさが消え、深夜の静寂に溶け込むほどに柔らかかった。


 いつものように、パジャマの袖から指先を少しだけのぞかせ、おずおずと両腕を広げる。僕は小さく息を吐き、机の上に置いたスマートフォンのタイマーを六十秒にセットしてから、彼女を一歩分、引き寄せた。


 ――ふわり、と。


 昼間よりもずっと、お互いの境界線が曖昧になるようなハグだった。


 パジャマの柔らかな生地越しに伝わる彼女の骨格は、驚くほど華奢で、守らなければいけないもののように感じられる。首筋から漂う、湯上がりの甘い香りが、僕の思考をゆっくりと麻痺させていく。


 美鈴の細い手が、僕の背中へとそっと回された。


 彼女は僕の胸に額を預けたまま、小さく、満足そうな吐息を漏らす。


「……高丘くん。このルーチンを導入したことにより、私の睡眠導入速度が四十二パーセントも改善されているわ。脳内での異常な思考のループが強制終了されて、スムーズにシャットダウンモードに移行できているの。……君というリソースは、本当に……高性能ね」

「それはどうも。……僕以外の人間のことは絶対にリソース扱いなんかしちゃダメですからね」

「あら。独占欲?」

「ち、違います。人間をリソース呼ばわりするのはあまり良くないからです!」


 いつもの軽口。だが、僕の声もどこか低く、優しく響いていた。


 静かな部屋。窓の外の夜景。腕の中の熱。全てが合わさって、これが仕事であるという大前提を、じわじわと溶かしていく。


 やがて、テーブルの上で無機質な電子音が鳴り響いた。


 規定の一分が経過したことを知らせる合図。いつもなら、美鈴が秒単位の正確さでパッと離れる瞬間だ。


 だが――。


 どちらも、動かなかった。


 美鈴の腕は僕の背中に回されたままで、僕の手も、彼女の背中を優しく包んだまま、離すきっかけを見失っていた。アラームの音だけが、虚しく二人の間を通り抜けていく。


「……天ノ川さん。もう六十秒、過ぎてますよ」


 僕が喉の奥でそう呟くと、美鈴は僕の胸にぎゅっと顔をうずめ直した。


 少しだけ、背中に回る手の力が増す。


「……うるさい。今、追加データの収集中よ。例外処理イレギュラーが発生したから、タイマーの数値を再計算しているの。……だから、まだダメ」


 くぐもった、けれど駄々をこねる子供のような声。


 追加データなど、ただの口実だろう。彼女自身、この心地良い温もりから離れたくないのだということが、その小さな体の密着具合から痛いほど伝わってきた。


 腕の中の存在があまりにも愛おしく感じられる。彼女を抱きしめている間中、胸が締め付けられるように苦しかった。


 言葉が、喉の奥まで出かかりそうになる。


 ――天ノ川さんは僕のことが好きなんですか、とか。好きだとしたらそれはどういう好きですか、とか。僕は天ノ川さんのことが好きです、とか。


 言えない。言えるはずがない。全ては僕の勘違いなのだから。言ってはいけないのだ。


 ただひたすらに胸が痛かった。


 数日前、夜のベランダで天ノ川さんに存在を認めてもらうまでの僕だったらこんな風に葛藤することもなかっただろう。自分にも他人にも、何も期待をしていなかったからだ。


 それが、今ではこんなにも辛い。


 どれだけの時間が経っただろう。美鈴が静かに腕をほどき、ゆっくりと一歩後ろへ下がった。


 その手を引き止めそうになるのを必死に堪える。


 夜景の逆光のせいで、彼女の表情はよく見えない。けれど、小さく肩をすぼめて、自分の部屋のドアノブへと手をかける彼女の動きは、どこか名残惜しそうだった。


「……じゃあ、今度こそシャットダウンするわ」


 美鈴はドアを開け、部屋に入る直前、ふと振り返った。影になっていた彼女の顔に、窓からの光が斜めに差し込む。


「……おやすみ、高丘くん。明日も、期待しているわ」


 そう言って、彼女はほんの少しだけ、いたずらっぽく口角を上げて笑った。


 いつもの無表情ではない、年相応の、酷く甘くて可憐な少女の笑顔。


 パタン、と静かにドアが閉まる。


 リビングに取り残された僕は、自分の胸元を押さえたまま、その場にへたり込んだ。そのまましばらく動くことすらできなかった。


「おかしいな……天ノ川さんって前からこんなに可愛かったっけ……」


 いや、可愛いのは知っているのだ。相手は非の打ち所がないほどの美少女なのだから。そうではない。そうではなく――。


 深夜の部屋にドクドクとうるさいほどの心音が響く。


「マズいって……。こんなのが毎日続いたらいつか本当に勘違いしちゃうよ……」


 どんな高度な数式を並べられたとしても、今のこの胸の奥の破裂しそうな熱さを説明することはできない。天才少女が仕掛けた合理的なはずの罠に、僕の理性が完全に狂わされようとしていた。

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