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第8話:スーパーマーケット・ワンダーランド

 週末の夕暮れ。駅前の庶民派スーパー『シカクエツ』の入り口で、美鈴は驚愕に目を見開いていた。


「……高丘くん、これは一体どういう現象?」


 銀髪をキャスケット帽に隠し、大きめの眼鏡をかけた変装スタイルだが、その隠しきれないオーラは、ネギの特売に群がる主婦層の中で明らかに浮いている。


「どういう現象って、ただの買い出しですよ。天ノ川さんが『物流の末端を観測したい』なんて言い出すから連れてきたんじゃないですか」

「違うわ。この人口密度……そして全員が特定の方向を向いて待機している。これはまるで、何らかの宗教的儀式か、あるいは――」


 その時、店内に軽快なBGMが鳴り響いた。店員が惣菜コーナーに半額のシールを貼り始める。周囲の空気が変わった。


「始まりましたよ。……『タイムセール』です!」


 僕は美鈴の腕を軽く引き、人混みの隙間を縫うようにして鮮魚コーナーへ向かう。


「いいですか、天ノ川さん。ここからは勝負です。まずはこの三枚おろしにされたアジ。定価なら見送りますが、四割引きなら話は別です。これに大葉を挟んでフライにすれば、一食あたりのコストを九十二円に抑えられます!」

「四割……? なんという価格崩壊。この短時間で資産価値が四十パーセントも下落するなんて、この市場のボラティリティはどうなっているの?」

「ボラなんとかなんて大層なものじゃないですよ。ただの在庫処分です。あっ、天ノ川さん! 鯖も安いですよ! 冷蔵庫に生姜とネギがあったはずなので、今日はこれで鯖味噌にしましょう。さあ、この後はお肉売り場も見ますよ!」


 美鈴は呆然としながら僕の隣をついてくる。


「高丘くん。世間一般で言うショッピングというのはこんなにせわしないものだったかしら」

「うーん、今この瞬間に限ってはそうですかね。……さて、最後はこれです。今日はポイント十倍デー。このポイントカードを出せば、実質、消費税分が相殺されます! なんて素晴らしい!」


 僕はレジで颯爽とアプリのバーコードを提示し、クーポンとポイントを併用して支払いを済ませた。


 店を出ると、美鈴は重い荷物を持つ僕の隣で、ブツブツと独り言を漏らし始めた。


「……驚いたわ。高丘くん、君のやっていることは単なる節約ではない。刻一刻と変化する市場価格をリアルタイムで監視し、最適なタイミングでリソースを投入……さらにポイント還元という複利効果まで計算に入れている。これは極めて高度な『経済的最適化エコノミック・オプティマイゼーション』よ」

「お、大袈裟ですよ。……まあ、一円でも安く美味しいものを作るためにこだわってはいますから。そうやって褒めてもらえるのは嬉しいですけど」

「けれど、少し疑問だわ。私は君に予算を切り詰めろだなんて指示をした覚えはない。それとも春崎が勝手にそんなことを言っているのかしら。だとしたら――」


 僕は慌てて否定する。


「ち、違いますよ。僕が好きでやっているだけです」

「どうして?」

「うーん、単に僕が貧乏性だっていうのはありますけど。そうですね……」


 少し思案した後、夕日に目を細めながら言う。


「僕は天ノ川さんの研究のことは何も分からないです。でも、食費を節約して一円、十円ずつでも積み重ねていけばその分のお金を天ノ川さんの研究の本や機材に回せるかもしれないじゃないですか。そういう形でなら僕も天ノ川さんのお手伝いができるんじゃないかなって思うんですよね。……どうでしょう。論理的な回答、になってました?」


 美鈴は急に押し黙った。不思議に思って彼女の方を見る。夕日のせいだろうか。その顔は微かに赤かった。


「……高丘くん。家に帰るわよ」

「は、はい。今、帰ってます」


 夕焼けに染まる帰り道。僕の両手はレジ袋で塞がっている。ふと、右手の袖に微かな違和感があった。見ると、美鈴が僕の制服の袖を、指先で小さく、ぎゅっとつかんでいた。


「……天ノ川さん?」

「……勘違いしないで。この時間帯は人通りが多く、不確定要素が多すぎるわ」


 美鈴は顔を背け、赤くなった耳を隠すように首をすくめた。その声は、スーパーでの分析官のような鋭さはなく、どこか心細げに震えている。


「……万が一、はぐれてしまったら非効率でしょう? 私は君を……その、私の『外部生命維持装置』を、ロストするわけにはいかないの」


 理屈っぽい言葉の裏側に隠された、彼女の小さな体温。


 夕日に照らされた彼女の横顔は、どの特許技術よりも、どの数式よりも、僕の目にはずっと眩しく映った。


「……分かりました。家に着くまで、絶対に離さないでくださいね」

「ええ。……論理的な判断ね」


  僕たちは、ゆっくりと、影を一つに重ねながら歩き続けた。


 だが、そんな穏やかな時間を過ごしながらも胸の奥で『消したい過去』がわだかまり続けていることを僕はどうしても感じてしまっていた。


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