第7話:合理的ハグの導入試験
深夜二時。リビングに並んだ大型モニターの前。美鈴の依頼で夜食にサンドイッチを作った僕は、彼女の研究の様子を後ろから眺めていた。
しばらくすると彼女が深い溜息とともに椅子に沈み込む。
「……ダメだわ。完全にデッドロックに陥った」
画面には、素人の僕には呪文にしか見えない数式やグラフが、無機質に明滅している。
「根を詰めすぎなんじゃないですかね。一度寝て頭をスッキリさせた方がいいんじゃ……」
「却下よ、高丘くん。このバグを修正しない限り、私の脳は休止モードに移行できない設定になっているの。……でも、計算資源が枯渇して、思考がネガティブなループに入り込んでいるのは事実ね」
美鈴は椅子の背もたれに頭を預け、天井を見つめたまま、ぶつぶつと独り言のように続けた。
「現在の私のストレス指数は、通常時の二・八倍。皮質刺激ホルモンの過剰分泌が確認されるわ。このままではニューロンが損傷しかねない。……早急に、拮抗物質が必要よ」
彼女はくるりと椅子を回転させ、こちらを真っ直ぐに見つめた。その瞳は真剣そのものだが、なぜか頬が微かに上気している。
「高丘くん。……君に、追加業務を依頼するわ」
「追加業務、ですか? 夜食ならさっき作ったばかりですよ」
「栄養摂取の問題じゃないの。……皮膚接触による、オキシトシンの強制分泌。これが現在の状況に対する、最もコストパフォーマンスの高い解決策だと導き出されたわ」
美鈴は立ち上がり、一歩、また一歩と僕に近づいてくる。無機質な研究室のような部屋の中で、彼女の体温が近づいてくるのが分かった。
「……よ、要するに……何をすればいいんですか?」
「ハグ、よ」
「ハグ!?」
僕の呆けた声に、彼女は不満そうに眉を寄せ、必死に言葉を重ねる。
「勘違いしないでちょうだい。これはあくまで科学的な処置よ。ハグによって分泌されるオキシトシンは、ストレス耐性を向上させ、脳の創造性を回復させる効果があるの。契約書にも、業務外の接触については『相談の上』とあったはず。……私は今、君に相談しているの。……いえ、これは命令に近い提案よ」
「ほ、ほぼ命令じゃないですか!」
「命令に限りなく近い提案よ」
そう言い切る美鈴の顔は、今や耳の先まで真っ赤になっていた。理屈を並べて自分を正当化しようとしているが、その細い指先は、期待と緊張で小さく震えている。
「……わ、分かりました。それも美鈴さんの『生存維持』に必要な仕事なんですよね」
僕が観念して両手を広げると、美鈴は「……理解が早くて助かるわ」と震える声で呟き、恐る恐る、僕の胸に飛び込んできた。
――ぎゅっ、と。小さな、重みのない衝撃。
初めて触れる、天ノ川美鈴の体。腕の中に収まった彼女は、驚くほど華奢だった。パジャマ越しでも体の細さがはっきり分かるぐらいだ。
学校ではあんなに大きく、遠くに見える天才が、今はまるで折れてしまいそうなほど繊細な、ただの少女としてそこにいる。
「……高丘くん」
「何でしょうか」
「……心拍数が、上昇しているわ。君の鼓動が、私の胸腔まで伝わって……干渉している」
それは僕の鼓動なのか、それとも彼女のものなのか。密着した体から伝わる、トクン、トクンという確かなリズム。
そして、鼻腔をくすぐる、慣れ始めてきたはずのシャンプーの、甘く清潔な香り。いつも掃除しているはずのこの部屋が、一瞬で知らない場所のように感じられた。
僕の心臓は、彼女の言葉を借りるなら、間違いなく『異常値』を叩き出していた。
やがて耐えられなくなった僕は彼女の体を静かに引き離した。
「お、終わり。終わりです。もう十分ですよね……!」
彼女は何も言わないままフラフラとした足取りで自分の椅子に戻っていく。
「あ、天ノ川さん……?」
不安になった僕はそっと近づくと美鈴の顔を覗き込んだ。膝を抱えるようにして座る彼女の顔は、いまだかつて見たことがないほど真っ赤に染まっていた。
彼女は視線だけをぎこちなくこちらに向ける。
「……高丘くん。君、顔が真っ赤よ」
「そ、それはあなたもです!」
「……そう」
それきり会話を打ち切ると彼女はモニターに向き直った。
「高丘くん。君はもう自分の部屋に戻って。……夜も遅いし」
「い、一応確認なんですけど、天ノ川さんの作業は無事に終わりそうなんでしょうか。さっきのハグの効果は……」
「いいからさっさと自分の部屋に戻って。君とこれ以上一緒にいると別のバグが発生する」
「よく分かりませんが、分かりました。……それじゃあ、失礼しますね。おやすみなさい」
「おやすみ、高丘くん」
小さく頭を下げてリビングを後にする。静かな廊下を歩いていると胸の鼓動がまだ激しく高鳴っているのが分かった。彼女の心臓の音がまだそこに残っているような気さえする。
「……こんなんで寝れるわけないじゃん」
苦し気に絞り出した声が夜の空気に混じって消えた。




