第6話:天才の弱点、あるいは人間性のバグ
天ノ川美鈴のもとで住み込みの家政夫として働くようになってから数日が経った。
その日、学校から帰宅した僕を待っていたのは、いつものモニターの電子音ではなく、寝室から漏れ出す消え入りそうな声だった。
「高丘くん、……帰ったの?」
急いでドアを開けると、そこにはベッドの上でシーツにくるまり、顔を真っ赤に火照らせた美鈴がいた。銀髪は汗で肌に張り付き、呼吸は浅く、荒い。
「天ノ川さん、大丈夫ですか!? 体調悪いんですか!?」
「……計算、ミス。昨夜の新型アルゴリズムの構築に……脳のリソースを、使いすぎたわ。オーバーヒート、……冷却機能が追いつかない……」
こんな時まで科学者ぶった言い回しをしているが、その手は小刻みに震えている。額に手を当てると、火傷しそうなほどの熱さだった。
「すごい熱じゃないですか。冷却機能も何もないですよ。ただの風邪です。すぐに春崎さんに連絡して――」
「……だめ。彼女は今、ロンドンと会議中。……私の弱体化を、外部に漏らすわけには、いかないの」
美鈴は苦しげに目を細め、僕の手を振り払おうとしたが、その力は驚くほど弱かった。
僕は小さく溜息をつき、すぐに台所へ向かった。氷嚢を作り、スポーツ飲料をコップに注ぎ、消化に良い粥の準備を始める。粥ができあがると彼女に食べさせ、風邪薬を飲ませた。
一時間ほど経ち。氷嚢を額に乗せ、少しだけ落ち着いた様子の美鈴を横に、僕は立ち上がった。
「一度、着替えを持ってきますね。汗をかいたままだとよくないですし」
ベッドのそばを離れようとした、その時だった。
――グイッ、と。背後から、制服の裾を強く引っ張られた。
「……あ、天ノ川さん?」
振り返ると、美鈴が潤んだ瞳で僕を見上げていた。その目からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちている。
「行かないで……」
「え……?」
「置いていかないで、高丘くん……。みんな、そうだった。私の頭脳が必要なだけで、私が壊れそうになったら……みんな、面倒そうに私を置いていくの……」
それは、世界を驚愕させる天才の言葉ではなかった。孤独に怯え、誰かの温もりを切望する、ただの小さな女の子の悲鳴だった。
彼女は僕の裾を握りしめたまま、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
「一人にするなら、……最初から優しくしないで。……怖いのも、暗いのも、もう嫌……」
両親に育児放棄をされていた僕は一人の夜の長さを誰よりも知っている。胸が、激しく締め付けられた。
僕は、彼女の熱い手を、そっと両手で包み込んだ。
「……僕はどこにも行きませんよ。あなたが『もういい』って言うまで、ずっとここにいます。そういう契約じゃないですか」
僕の言葉に、美鈴は呼吸を整え、僕の手を握り返した。
そのまま、彼女は安心したように深い眠りに落ちていった。
***
翌朝。窓から差し込む陽光で目を覚ます。いつの間にかベッド脇の椅子で寝落ちしてしまっていたようだった。美鈴の姿が目に入る。彼女はベッドの上で体を起こし、背筋を伸ばして座っていた。
熱はすっかり引いたようで、彼女はいつも通り、無機質な表情でタブレットを眺めている。
「……おはようございます。気分はどうですか?」
僕が声をかけると、美鈴はピクリと肩を揺らしたが、視線は手元に向けたままこう言い放った。
「おはよう、高丘くん。……昨日の私の言動については、一切のログを消去しておいてちょうだい。あれは高熱と低血糖による、一時的な脳のバグよ。……完全に、忘れて」
そう言う彼女の耳の先が真っ赤に染まっているのを、僕は気づかないふりをしてあげることにした。
「分かりました。僕の記憶からはちゃんと消しておきますね。……朝ご飯、作りますよ。何かリクエストはありますか?」
「……エビフライ。タルタルソースもつけてちょうだい」
「病み上がりなんですから絶対にもっとお腹に優しいものの方がいいですよ。食欲があるのはいいことですけど」
「なら、初めからリクエストなんて聞かないで。不愉快よ」
彼女は頬を膨らませてそっぽを向いた。病み上がりでまだ心細いのかもしれないが、子供のようなすね方だ。
「エビフライ、好きなんですか?」
「……好き」
素っ気ない返答。僕は困ったように笑って言う。
「じゃあ、夕飯はエビフライにしますから。機嫌直してください」
「その言い方は語弊がある。私は事実に基づいて抗議しているだけであって機嫌を損ねているわけじゃないわ」
まるで押し問答だ。このままではいつまで経っても彼女の朝食を作ることができない。僕はその抗議を華麗に受け流すことにした。
「それだけ喋れるなら風邪はもうよくなったみたいですね。朝ご飯の用意をしてくるので無理せずに横になっていてください」
「……高丘くん。君、私を子供だと思ってる?」
「そんなことないです。あまり調子に乗って動き回ったりしたらダメですからね!」
これなら照れさせておいた方がおとなしくてよかったかなと苦笑する。僕は朝食の準備をするためにそのまま彼女の寝室を後にした。




