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第5話:学校の氷姫(アイスドール)と、秘密のアイコンタクト

 翌朝。僕は、いつになく軽い足取りで登校していた。


「……昨日までの地獄が、本当に嘘みたい」


 アイロンがピシッとかけられた制服。しっかり朝食を摂って活力がみなぎる体。そして何より、カバンの中には昨日までなかった現金五十万円という名の余裕が入っている。


 人生でそんな大金を持ったことすら初めてだ。余裕ができたのと同時に恐ろしすぎてカバンを守るように自然と手を添えてしまう。かえって怪しいと分かっていてもそうせずにはいられない。


 この現金は放課後になったら一秒でも早くATMに直行して預けてくるつもりだった。それまでは、この気が気でない状態のまま当たり前な顔をして授業を受け続けなければならない。


 僕が通っているのは、ごくごく普通の都立高校だ。カリキュラムも、そこに通う生徒たちも他の高校と特段変わることはない。だが、この学校には一人だけ、普通じゃない生徒がいた。


「おい、見ろよ……『氷姫アイスドール』だ」

「うわ、本物かよ。今月初めて見たわ……」


 校舎の入り口が、一瞬にして静まり返った。生徒たちが自然と左右に分かれ、一つの道ができる。


 その中央を、銀髪をなびかせて歩いてくる少女――天ノ川美鈴(あまのがわみすず)だ。


 昨日、僕の作ったハンバーグを「五億点」と言って頬張っていた姿は微塵もない。感情を一切排除した無機質な瞳。他者を寄せ付けないオーラ。


 彼女は、若くして数々の特許を持つ天才であり、この学校には籍を置いているだけで名誉と言われる特別な存在なのだ。


(……あんな顔、家では一回もしてないのになぁ)


 僕は雑踏に紛れながら、彼女の横顔を眺めた。


 家ではパジャマ代わりのダボダボなTシャツで、髪もボサボサ。隙あらば床で寝ようとする『生活不能者』が、外ではこれほどまでに美しく、冷徹な象徴として君臨している。


 登下校も他の生徒とは違う。彼女はいつも車で送り迎えをしてもらっているそうなのだ。僕も一緒に車に乗っていってもいいと言われたが、さすがに固辞した。車から降りるところを他の生徒に見られでもしたらどんな騒ぎになるか分からない。


 美鈴は校舎の方へゆっくりと歩を進める。


 彼女が僕の横を通り過ぎようとした、その時だった。


 ふわりと、昨夜から今朝にかけて何度も嗅いだ、彼女のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。


 美鈴は前を向いたまま、スピードを緩めることもなく、僕の耳元をかすめるような微かな吐息で囁いた。


「……今日の夕飯、昨日と同じハンバーグがいい。……デミグラスじゃなくて、あのおろしポン酢のやつ」


 聞き取れるかどうかの小さな、しかし、はっきりとした声。


「……おろしポン酢、でいいのよね。あの調味料?」


 不安になったのか小声で尋ねてくる。膨大な情報が詰め込まれた彼女の脳内において料理の知識が占める領域はさほど多くないのだと思われる。


 僕が小さく頷き返すと、彼女は本当に微かに笑った。その表情の変化はきっと僕にしか分からなかっただろう。


 妙な感覚だった。彼女のその我儘わがままも、些細な表情の変化も僕だけに許されたものなのだ。


 美鈴はまた元の無機質な表情に戻ると、優雅な足取りで教職員用のエレベーターの方へと消えていく。


「おい、高丘! 今、天ノ川さんとすれ違ったな! 心臓止まらなかったか?」

「う、うん……。さすがに緊張感あるね」


 友人たちが騒がしく駆け寄ってきた。


 彼らは知らない。今、学園中の羨望と畏怖を一身に集めた『氷姫』が、放課後に僕が作る献立を楽しみにしているなんて。


 彼女の空っぽの胃袋を、そして孤独な生活を満たせるのは、世界中で僕一人だけなのだ。


(……ハンバーグ、おろしポン酢か。今度は豆腐を混ぜてヘルシーにしてみようかな)


 周囲の誰にも明かせない、圧倒的に甘美で合理的な秘密。


 胸の内にこみ上げて来る優越感がある。その感覚は月収五十万円の報酬よりも、ずっと僕の理性を狂わせそうだった。


 浮き足立つ心臓の音を誤魔化すように、僕はわざとぶっきらぼうにカバンを肩にかけ直す。それから、現金五十万円が入っていることを思い出し、慌てて手を添えた。

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