第69話:数年後、天才博士の唯一の帰る場所
高校の卒業式から、数年後の未来。
東京都内に新設された国立研究特区。そのシンボルである大ホールの国際会議場は、世界各国から集まった著名な研究者やプレス関係者の熱気に包まれていた。
「――以上のモデルにより、次世代エネルギーの完全な制御と、環境負荷ゼロの循環システムの実証が完了しました。実用化までにはまだ課題は残されていますが、必ずや解決できると私は確信しています。……ご清聴ありがとうございました」
壇上で一礼した女性に、割れんばかりの拍手が注がれる。
天ノ川美鈴。
今や彼女は若くして大学教授の地位に就任し、世界的なエネルギー危機を救う立役者として、歴史にその名を刻む偉大な科学者となっていた。
彼女の周囲には、世界有数の学者たちや大企業のCEOたちが列をなし、こぞって声をかけようと待ち構えている。
「天ノ川博士! 素晴らしい発表でした。今夜、都内の一流ホテルで最高級フレンチを用意させているのですが、ぜひ今後の共同研究について――」
「博士、我が社のプライベートジェットで、明日のニューヨークのレセプションへご招待したく――」
世界中の富と名声が、彼女の目の前に積み上げられている。だが、高級なテーラードスーツに身を包んだ美鈴は、相変わらずの無表情のまま、冷徹に言い放った。
「全て却下よ。私のタイムマネジメントにおいて、これ以上の社交へのリソース割当は完全に非効率だわ。……私はこれから帰路につく仕様となっているの。失礼するわ」
「天ノ川博士、お待ちください……!」
唖然とするVIPたちを尻目に、ホールを後にしようとする美鈴。入り口のそばで、一人の女記者がそんな彼女に声をかけた。
「美鈴。今週末、空いてたらご飯行かない?」
「日曜の夜にはロンドンに発つけど、それまでの間なら言ってくれればいつでも都合をつけるわ」
「オッケー。みんなにも声かけとくね」
女記者は素朴で人懐っこい笑みを浮かべた。
稀代の天才科学者と気心の知れたやり取りをする女記者。その謎めいた存在に対し、隣にいた記者が驚愕の視線を向ける。
視線に気づいた女記者――渡辺小幸は隣の記者へとピースサインをしてみせた。
「私たち、高校の同級生でーす」
美鈴も、彼女を真似てピースサインを作る。反射的に切られるシャッター。学会の場にはまるでそぐわない親しげな女たちのツーショット写真がカメラに納められた。
そのまま国際会議場を後にした美鈴は、秘書の春崎が手配した高級送迎車の後部座席へと滑り込んだ。バタン、とドアが閉まり、静寂が訪れた瞬間。
「……ふぅ。限界だわ」
美鈴はスーツの襟元を緩め、シートにぐったりと倒れ込んだ。
どれだけ世界的な大天才になろうとも、どれだけ個人資産が跳ね上がろうとも、彼女の本質は少しもアップデートされていなかった。他者とのコミュニケーションは脳内CPUを激しく消耗するし、生活能力は相変わらず皆無のままだ。
「お疲れ様です、先生。今日も完璧な天才っぷりでした。ですが、せっかくの高級フレンチのディナーを断ってしまって本当によろしかったのですか?」
運転席の春崎が、バックミラー越しに視線を向ける。
「春崎、冗談はやめて。現在の私の脳内糖分は完全に枯渇し、自律神経のバランスは崩壊寸前よ。他個体が用意した味付けの濃いフレンチなんて、私の繊細な味覚細胞が拒絶反応を起こすわ。……早く、我が家の『絶対的インフラ』のもとへ座標を移動させなさい」
「はい、了解です。高丘くんの待つご自宅へ、最短ルートで急ぎますね」
「春崎、訂正よ。彼はもう『高丘くん』じゃないわ」
「ああ、そうでした。今はもう、天ノ川玲於奈くん、ですね」
「……ええ、そうよ」
美鈴は微かに頬を染めた。
「春崎もまたそのうち我が家に遊びに来てちょうだいね。私にとっては姉のようなものなんだから何も遠慮しなくていいのよ」
「私なんかにはもったいないお言葉です。何度言われても慣れません……」
「早く慣れてちょうだい。……姉さん」
美鈴が冗談めかして言うと、運転席の春崎は困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
車は夜の都心部を駆け抜け、あの懐かしいタワーマンションの地下駐車場へと滑り込んだ。
エレベーターが最上階に到達するまでの数十秒すら、今の美鈴にとってはもどかしい。どれだけ有名になっても、どれだけ世界中から乞われようとも。天ノ川美鈴にとって、この世界で『帰るべき場所』は、たった一つしかなかった。
チン、と静かな電子音が響き、最上階のフロアに到着する。
美鈴はヒールの音を響かせながら、我が家の重厚な玄関扉の前へと進んだ。スマートキーをかざし、ロックが解除される。
ガチャリ、と扉を開けた瞬間。
「あ――」
美鈴の瞳に、一瞬で光が戻った。
そこに広がっていたのは、数年前と何一つ変わらない、ホテルのスイートルームのように完璧に磨き上げられた白亜の空間。床にはゴミ一つなく、サーバーラックが心地よい低音を響かせている。
そして何より、キッチンの奥から、美鈴の嗅覚受容体を直接愛撫するような、かぐわしい匂いが漂ってきた。じっくりと時間をかけて取られた黄金色の出汁の香り、そしてふんわりと甘い、焼き立てのだし巻き玉子の匂い。
「おかえり、美鈴さん。学会、お疲れ様。ちょうど今、ご飯ができたところだよ」
キッチンのカウンターから顔を覗かせたのは、エプロン姿の青年、玲於奈だった。数年前よりも少し背が伸びて、どこか頼もしくなった最愛のライフマネージャー。彼は当時と変わらない、世界で一番優しくて、温かい笑顔で美鈴を迎えてくれた。
その笑顔を見た瞬間、美鈴の冷徹な表情は完全に消滅した。
バッグを床に放り投げ、靴を脱ぎ捨てるようによたよたと走り出すと、おねだりする子犬のような目を潤ませて、玲於奈の胸へと一直線に飛び込んだ。
「ただいま、玲於奈。今の私には補給が必要よ。即刻、無制限の充電を要求するわ……!」




