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最終話:合理的生存戦略の、その先へ

 玲於奈の胸に勢いよく飛び込み、限界まで『』を堪能した美鈴は、ようやく満足したように息を吐き出した。


「ふぅ……。低下していた私のバイタルサインが、完全に正常値へとリカバリーされたわ。やはり君の体温は、私の心身を最適化するための最高のリソースね」

「それは良かった。さあ、スーツがシワになっちゃうから、早く部屋着に着替えておいで。夕飯の仕上げをしておくから」


 美鈴を抱き留めたまま玲於奈は少し申し訳なさそうな顔をする。


「美鈴さん。でも、今日の晩ご飯、本当にあんな簡単なものでいいの……?」

「徹夜明けだし、現在の私の疲労度をかんがみるに胃への負担が小さいものが望ましいわ。……それに、あのメニューは君が私に初めて作ってくれた料理だから」

「思い出の料理が質素すぎる……。こんなことなら初めて出会った時にもっと手の込んだものを作っておけばよかったですよ」

「あの時の餓死寸前だった私に何を食べさせる気なのよ」


 美鈴がおかしそうに笑う。


「私のためにいつもありがとう。……着替えてくる」


 美鈴は名残惜しそうに腕をほどくと、リビングの奥へとトボトボと歩いていった。その背中を見送りながら、玲於奈はふっと口元を緩める。世界を動かす天才教授になっても、この家の中での彼女は、あの頃と何一つ変わらない愛おしい同居人のままだ。


 やがて、ゆったりとした大きめのTシャツに着替えた美鈴が、ダイニングテーブルの定位置についた。


 今夜のメニューは、二人が出会った最初の夜に作った、玲於奈の家事スキルの原点――『究極の出汁茶漬け』。それに『完璧な塩分濃度のだし巻き玉子』だ。


 湯気がふんわりと立ち上る器を前に、美鈴の銀色の瞳がキラキラと輝く。


「いただきます」

「どうぞめしあがれ」


 美鈴は丁寧に箸を持つと、まずはだし巻き卵を一口、口へと運んだ。


 じゅわりと溢れ出す出汁の旨味と、ほんのりとした甘み。完璧な温度と塩分濃度で焼き上げられたそれは、彼女の疲れた脳細胞に直接染み渡っていく。


「……っ、ん。驚異的な再現性だわ。どれだけ時が経っても、君の出力する料理のクオリティは、常に私の期待値の最高点を正確にトレースしてくる。脳の報酬系が完全にジャックされているわ」

「お口に合って何よりです。ほら、出汁茶漬けの方も冷めないうちに食べて」


 玲於奈に促され、美鈴は出汁茶漬けをレンゲですくい、上品に、けれどどこか嬉しそうに次々と口を動かしていく。


 二人で静かに食卓をつつく、穏やかで温かい時間。


 ふと、美鈴がレンゲを持つ左手の指先に、玲於奈の視線が留まった。彼女の白い薬指には、シンプルながらも美しい輝きを放つプラチナの指輪がはめられている。


 そして、玲於奈の左手の薬指にも、全く同じデザインの指輪が光っていた。


 美鈴がかつて「同一規格の製品を二人の左手第四指に装着することで、視覚的な一対性が保たれ、他個体からの不要なアプローチを永久にシャットアウトできる」という、世にも難解な理屈で調達してきた結婚指輪だ。


 建前はどこまでもロジカルだったけれど、裏を返せば、ただの猛烈な独占欲の表れだった。


 玲於奈が手元を見つめて微笑んでいると、美鈴も自分の指輪に視線を落とし、それから少し照れ臭そうに髪を耳にかけた。その耳の付け根は、今でも玲於奈が見つめるとすぐに桜色に染まってしまう。


「……玲於奈。何をそんなに観察しているの?」

「いや。僕たち、本当に結婚したんだなと思って。一文無しで公園で倒れそうになっていたあの日の僕が、今では世界一の天才科学者の旦那さんになってるなんて、いまだに夢みたいですよ」


 両親に捨てられ、自分に向けられる愛など信じられないと心を閉ざしていた苦労人の少年。そんな彼の凍りついた過去を、美鈴は圧倒的な財力と、それ以上の不器用な愛で完全に溶かしてくれた。


 玲於奈の言葉を聞いた美鈴は、箸をそっと置き、真っ直ぐに彼の瞳を見つめてきた。


 夜景の光を反射する銀色の瞳には、深い愛おしさと、微かな誇らしさが満ちている。


「夢ではないわ。これは、私たちが互いの生存確率を最大化させるために選び取った、厳然たる現実よ」


 美鈴は少し胸を張り、タブレット端末を操作するように人差し指をスッと動かしてみせた。


「言っておくけれど、私は極めて合理的な人間よ。もし君との同棲生活において、私のパフォーマンスや幸福度が低下するような予測モデルがわずかでも存在していたら、とっくに契約を破棄していたわ。……でも」


 美鈴はそこで言葉を区切り、ふにゃりと、世界中のどんな難解な数式よりも美しい、極上の笑顔を浮かべた。


「……私たちの新契約がスタートしてから今日に至るまで、我が家のシステムにおける『幸福度指数』は、現在も右肩上がりで最高値を更新中よ。このグラフの傾きは、統計学的におそらく一生、減少傾向に転じることはないわね」


 科学的な言葉を使いながらも、それは彼女からのこれ以上ない「一生愛し続ける」という告白だった。


 そんな愛おしすぎる彼女の言葉に、玲於奈は心からの幸せを感じながら、優しく微笑み返した。


「うん。――僕もだよ、美鈴さん。僕の幸福度も、毎日ずっと最高値を更新中だ。今でもどんどん美鈴さんのことを好きになってるよ」

「……君は本当に、そうやってサラリと非論理的な言語出力を返すんだから。私の脳内CPUがまた処理落ちを感知しているわ」


 顔を真っ赤にして慌てる美鈴の手を、玲於奈はテーブル越しにそっと握りしめた。繋がった手のひらから、お互いの温かい体温が、優しくシンクロしていく。


 親に捨てられ一文無しだった少年と、生活能力皆無の孤独な天才少女。


 月収50万円の業務委託契約という打算から始まった二人の関係は、今、何よりも強固な『家族の愛』という名の絶対的なインフラへと昇華していた。


 これからも二人は、このタワーマンション最上階の完璧に掃除が行き届いた部屋で、美味しいご飯を囲みながら、世界一甘い日々を重ねていくのだろう。


 二人の合理的で、世界一甘い生存戦略は――これからも一生、続いていく。



(『合理的生存戦略としての契約同棲』 完)

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