第68話:天才少女の本当の願い
カチリ、とボールペンのキャップを閉める音が、静かなベランダに響いた。
新契約書の署名欄には、僕の名前がはっきりと刻まれている。これでもう、引き返せない。いや、引き返す気など最初から微塵もなかった。
「……よし。これで契約、成立だね」
僕が顔を上げて微笑むと、美鈴はテーブルの上の書類をひったくるように回収し、食い入るように文字を見つめた。インクがしっかりと乾いているのを確認すると、彼女は書類を愛おしそうに胸に抱きしめ、深く、大きく息を吐き出した。
「ええ……。システムへの登録完了、プロトコルの執行を宣言するわ。これで君の所有権……いえ、君の人生の占有権は、完全に私へと委譲されたわ」
美鈴は堂々と宣言する。だが、その銀色の瞳は熱っぽく潤み、頬は夕暮れの茜色よりも深く赤く染まっていた。
「契約が成立した以上、甲……つまり私には即座に義務を果たす責任が生じるわ。付帯条項に基づき、即座に『報酬』を支払うわね」
「報酬って、さっきの条項の……?」
「そうよ。君が望む限りの、永続的な愛の支給よ」
美鈴は抱えていた書類をそっとテーブルに戻すと、一歩、また一歩と僕との距離を詰めてきた。
サックスブルーのワンピースの裾が、夜風にふわりと揺れる。
至近距離。見上げる美鈴の顔が、あまりの緊張のせいか微かに震えているのが分かった。
「今回は新契約の『調印式』よ。非可逆的で、親密度の深度を決定づける肉体結合プロトコルが必要ね」
肉体結合プロトコル。その言葉を聞いて、僕の脳裏に思い起こされたのはある強烈な記憶だった。身体の奥が疼くような感覚さえ伴う。僕と彼女がお互いに一つになったあの夜――。
「み、美鈴さん、それって――」
「ええ、そうよ」
彼女は澄ました顔で甘く囁くように言う。
「……誓いのキス。本物の結婚式では、するそうだから」
その瞬間、僕は自分自身の最悪の勘違いに気づいた。猛烈に恥ずかしい。今頃、僕の顔は真っ赤になっているはずだ。
「そ、そっか! そうですよね! なるほど……!」
「玲於奈……? 結婚式の定番ってそうじゃないの?」
彼女が訝しむような視線を向けてくる。
「いったい何を想像していたのかしら。もしかして……」
「やめてください! 忘れてください……!」
僕をからかうように笑う美鈴。
「君が望むのなら、してもいいけれど。さすがにロマンチックじゃなさすぎない?」
「僕が悪かったですってば……。もう言わないでください!」
「でも、安心した。いつも私から求めてばかりだったから。君もそういうことを考えたりするのね」
「前も言ったと思いますけど、僕も年頃の男子なので……」
美鈴は、彼女には珍しく腹を抱えるようにして大笑いしていた。
「笑いすぎですよ、もう……」
「さっきまで緊張していたのに君のおかげで解けたわ。……さあ。目を瞑りなさい、玲於奈」
命令するような口調。その声はもう震えてなどいなかった。
僕が観念してそっと瞼を閉じると、すぐに甘いシャンプーの香りが鼻腔を満たした。衣擦れの音。美鈴が小さく背伸びをする気配。
そして。
ふわり、と。
驚くほど柔らかくて、温かい熱が、僕の唇に重ねられた。
「っ……」
心臓が跳ね上がる。
ダイレクトに脳の芯まで痺れさせるような、甘くて優しい感触。
美鈴の小さな手が、僕の胸元のシャツをきゅっと強く掴み、彼女の吐息が唇を通じて直接伝わってくる。
ほんの数秒の、けれど永遠のようにも感じられる調印の儀式。
ゆっくりと美鈴が唇を離したのを感じ、僕は目を開けた。
目の前の美鈴は、優しく微笑んでいた。頬をかすかに桜色に染め、潤んだ瞳のまま小さく呼吸を繰り返している。
「……キスって、何回してもドキドキする」
「そうですね……」
「ま、まだ終わりじゃないわ。 第二条における『無期限』の証明として……蓄積された精神的疲労を完全に相殺する、最低十分間、いえ、それ以上の全力の抱擁を要求するわ」
美鈴はそう叫ぶと、自ら僕の胸の中へと飛び込んできた。
細い両腕を僕の首の後ろに回し、体中の全質量を預けるようにして、ぎゅっと強く抱きついてくる。
僕も愛おしさに胸を締め付けられながら、その華奢な身体を両腕でしっかりと抱きしめ返した。
静かなベランダ。眼下に広がる無数の光。
世界一の夜景をバックに、僕たちは言葉を失ったように、ただお互いの体温を、心臓の鼓動を、強く強く確かめ合った。
美鈴の小さな体が、僕の腕の中でぴったりと収まっている。
十分などという時間は、とっくに過ぎていた。十五分、二十分……それでも僕たちは腕の力を緩めない。義務感や契約の縛りなんて関係ない。ただ、こうして触れ合っている時間が、お互いにとって何よりも心地よく、何よりも必要なものだった。
やがて、僕の胸に顔を埋めたまま、美鈴が満足げな、どこか独占欲に満ちた声を漏らした。
「ねえ、玲於奈。私、自分の欲しかったものが何だったのかようやく分かったの」
「美鈴さんの欲しかったもの?」
「……私は、温かい家庭が欲しかったんだと思う。子供の頃からずっと。十六年もかかってしまったけれど、ようやく手に入れたわ」
美鈴は僕のシャツをきゅっと握りしめ、夜景の光を反射する銀色の瞳で僕を見上げると――。
「もう逃がさないし、どこにも行かせない。これで君は、一生私の家族よ、玲於奈」
不敵に、けれど世界一甘く微笑んだ。
最終章「新しい契約と未来編」完
エピローグに続く




