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第67話:報酬は「私の全人生」

 ライトに照らされたA4の紙面を見つめたまま、僕の口からかすれた声が漏れた。


「業務内容が……僕の、幸福の追求……。僕に幸せになれってこと……?」


 かつての『住居の清掃』や『食事の提供』といった事務的な言葉はどこにもない。そこにあるのは、あまりにも突飛で、あまりにも熱い、ただ僕一人を幸せにするためだけの文字列だった。


「み、美鈴さん、これ……」

「つ、次に進みなさい。まだファーストステップに過ぎないわ」


 美鈴はそっぽを向いたまま言う。だが、その手が小刻みに震えているのはもはや隠しきれていなかった。


 僕は促されるまま、喉を鳴らしてさらにページをめくる。続く項目に並んでいたのは、もはや業務委託契約の概念を完全に破壊する記述だった。


【第二条(契約期間):本契約の有効期間は無期限(一生)とする】


「一生……」


【第三条(報酬):乙(玲於奈)に対する対価として、甲(美鈴)の全人生、および全資産を提供する。また、付帯条項として、乙が望む限りの永続的な『愛』を支給するものとする】


「っ……!」


 頭を殴られたような衝撃だった。数百億円とも言われる彼女の資産。それどころか、天ノ川美鈴という天才科学者の『全人生』と、無限の『愛』。それが、かつて月収50万円だった報酬の欄に、堂々と書き連ねられている。


「美鈴さん、これじゃあ契約じゃないよ。こんなの、まるで……」

「そうよ。これは私なりの……いいえ。私たちなりの、婚姻届よ!」


 美鈴が突然、声を大にして僕の言葉を遮った。


 彼女は勢いよく僕の方を振り向くと、真っ赤になった顔を隠すこともせず、潤んだ銀色の瞳で真っ直ぐに僕を見つめた。


 首筋まで、耳の裏まで、真っ赤に染まっている。それでも彼女は、一歩も引かずに叫んだ。


小幸こゆきは私たちに結婚したらどうかなんて言っていたけれど、今すぐ入籍することが現実的でないことくらい私も分かっているの。……だから、これはその代わり。私の頭脳を二十四時間フル稼働させて、どうすれば君を合法的に、永久に私の隣に拘束できるかをシミュレーションした結果よ。何か文句あるかしら!?」


 美鈴の瞳から、一粒の涙がハラリとこぼれ落ちた。それは悲しみではなく、あまりの緊張と、溢れんばかりの感情の決壊だった。


「私の全資産なんて、君が毎日作ってくれる料理の完璧な美味しさに比べたらただの数字の羅列に過ぎない。私の人生なんて、君が隣にいてくれないなら無意味な時間の消費でしかない。だったら、こんなもの全部君にあげるわ! だから……だから……っ」


 美鈴は僕のシャツの胸元を、小さな両手でギュッとつかんだ。潤んだ瞳で僕を見上げてくる。


「……私の人生の、最終解になって。玲於奈」


 生存戦略、リソース、最適化。そんな科学の言葉を全部脱ぎ捨てて、不器用な天才少女は、ただ真っ直ぐに僕への愛を叫んでいた。


 胸の奥から、言葉にできないほどの愛おしさと、温かい涙が込み上げてくる。


 自分のような人間がここにいていいのか、などという不安は彼女の圧倒的な愛によってとっくに消し飛ばされていた。


「……待ってて、美鈴さん」

「え……?」


 僕は一度美鈴の身体を優しく離すと、リビングへと戻った。


 僕がリビングの引き出しから取り出したのは、一本のボールペンだった。綺麗な水色をしたペン。渡辺が冗談半分でプレゼントしてくれたものだが、これほど早く出番が訪れるとは思わなかった。


 確かにこんな大切な契約書にサインをするのに僕が普段使っているような安物のペンでは格好がつかなかっただろう。渡辺には感謝せねばなるまい。


 ベランダに戻ってきた僕は、夜景が照らすテーブルの上に新契約書を広げ、そのボールペンを力強く握り締める。


 しかし――この契約書にサインをする前に美鈴にはどうしても言っておかなければならないことがあった。この新契約書を一目見た時から気になっていたことだ。意を決した僕は、彼女に告げる。


「美鈴さん。この新しい契約書の内容なんですけど、少しだけ修正してもいいですか?」

「契約書の修正……?」


 不安そうに見つめる美鈴。僕は、彼女を安心させるように穏やかに微笑んだ。


「そんなに難しいことじゃないですよ。今の第一条だと業務内容は『僕の幸福の追求』ってなってますよね。これを変更したいです。『僕と美鈴さんの幸福の追求』に」

「……君と、私の幸福?」

「僕がただ幸せになるだけじゃあいけないと思うんですよ。……これからは、二人で一緒に幸せになりませんか?」


 そう言うと、美鈴は目を見開き、何度も力強く頷いた。


「今すぐ契約書を印刷し直してくるわ!」

「ま、待ってください。このまま手書きで直しちゃっていいと思いますよ。むしろ、その、手書きで僕と美鈴さんの名前が書いてあった方が……婚姻届っぽくて良いかなって……」


 僕が照れ臭そうに言うと、美鈴も頬を染めた。


「そう。そうね。それじゃあ……」


 僕からボールペンを受け取ると、美鈴は大切そうにそれを握り締める。


 第一条の項目。僕の名前が印字されているそばに、彼女自身の名前が書き加えられていく。機械のように整った綺麗な字。今はその手書きの文字さえも愛おしく思えた。


 自分の名前を書き終えると、美鈴はペンと書類を僕の方に差し出してくる。


「契約書の訂正は済んだわ。今度は、君の番。……サインしてもらえる?」


 僕は、これまでの極貧生活の苦しみも、孤独だった人生も、全てを過去にするような、生涯で一番の笑顔を浮かべた。


「喜んで。――僕の全人生をかけて、君を幸せにするよ」


 迷いは一切なかった。


 僕はボールペンの先を紙面に走らせ、署名欄に自らの名前を、一文字ずつ丁寧に、そして力強く書き込んでいった。

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