第66話:夜景のベランダ、提示された新契約書
初秋の夜風が、タワーマンションの最上階にあるベランダを心地よく吹き抜けていく。
手すりに寄りかかりながら、僕は眼下に広がる夜景を眺めていた。無数の光の粒子がまるで地上に降りた天の川のごとく煌めいている。二人の時間を静かに祝福しているかのようだ。
「……ちょうど、あの日と同じだ」
ふと、僕の口からそんな言葉がこぼれ落ちた。
「あの日、とはどの座標を指しているのかしら」
隣に並んだ美鈴が、お揃いのマグカップを両手で持ちながら小首を傾げる。
いつもならぶかぶかのTシャツに白衣を羽織った姿だが、今夜は少し違った。デートをしているような意識なのか、それとも彼女なりの正装なのか、綺麗なサックスブルーのワンピースを着ている。
これなら僕も部屋着から着替えてくればよかったと少しだけ後悔していた。
「最初の契約を結んでから、ちょうど一ヶ月が経ったあの夜のことだよ。あの時もこうして、二人でベランダから夜景を観ていたでしょ。僕が『ここにいていいのかな』って聞いたら、美鈴さんが『好きなだけここにいていい』って言ってくれて……」
「っ……」
美鈴の白い頬が、夜景の光の中でも分かるほどにぽっと赤くなった。
「過去のログを正確に記憶しているのね。……言っておくけれど、あの時の発言はあくまで我が家の生活環境維持における純粋な統計データに基づいたロードマップであって、そこに非論理的な感情の混入は――」
「うん、分かってるよ。でも、嬉しかったんだ。……それに僕たちが恋人同士になってから将来のことを約束したのもこの場所だった。美鈴さんとの思い出の節目に必ずこの夜景がある気がする」
「私も、君と一緒にこの場所で過ごすのは好きよ」
「僕もです」
僕が優しく微笑みながら美鈴の頭を軽く撫でると、彼女は小さな声を漏らして身をすくめた。
以前なら何かの建前を用意することでようやく義務的に行っていたスキンシップも、今では自然と心地よさそうに目を細めて受け入れている。
美鈴が僕のために全てを投げ打って戦ってくれたあの日から、世界は劇的に変わった。
僕を縛り付けていた最悪の過去は消え去り、学校でも僕たちは誰もが認めるパートナーになった。
一文無しで公園のベンチで凍えていた僕が、今こうして世界一愛おしい天才少女の隣で、穏やかな夜風に吹かれている。
まさに、奇跡のような毎日だ。
すると、美鈴がふうっと深く息を吐き、持っていたマグカップを近くのテーブルに置いた。
その表情が、いつになく真剣なものへと切り替わる。彼女は僕の目の前に一束の書類を差し出してきた。
それは、先ほどプリンターから出力されていた、あのホチキス留めの紙の束だ。
「……玲於奈。我が家の基本システムの根幹に関わる重要な提案を行うわ。新しい契約書を持ってきたからサインを要求する」
「新しい、契約書……」
僕はゴクリと唾を飲み込み、その書類を受け取った。表紙には確かに、先ほど目にしたタイトルが印字されている。
『合理的生存維持、および永続的幸福追求に関する新業務委託契約書』
かつて両親に捨てられ、バイト先は倒産し、絶望に打ちひしがれていたあの夜。生き延びるために藁にも縋る思いでサインをした、無機質な業務委託契約書。
月収50万円、一日三食の提供、住居の清掃――全てが利害の一致だけで割り切られていたはずの、あの契約書が、美鈴の手によって完全に書き換えられていた。
「現在の私たちの関係性は、初期の『雇い主と家政夫』という暫定的なモデルから、大幅にアップデートされているわ。旧契約書の文言では、現在の熱力学的、および心理的な親密度を正確に管理・運用することが不可能だと判断したの」
美鈴は真っ赤になった顔を隠すように、腕を組んで胸を張った。だが、その足元が小刻みに震えているのに僕は気づいてしまった。彼女は今、人生で一番の大勝負に出る科学者のような緊張感を漂わせている。
「さあ、確認しなさい。私の脳内リソースをフル活用し、法的な隙を完全に排除した、私たちの未来における最重要プロトコルよ」
「……分かった。読ませてもらうよ」
僕はベランダのライトに書類をかざし、ゆっくりと表紙をめくった。
かつての契約書には、第一条として『甲(美鈴)の健康維持のための食事提供』といった文言が、冷たい事務的なフォントで書き連ねられていたはずだ。
だが、この新しい契約書の、記念すべき最初の項目――。
そこには、美鈴が数日間部屋にこもり、赤面しながら何度も何度も書き直したであろう、あまりにも非論理的で、あまりにも愛おしい文言が刻まれていた。
【第一条(業務内容):高丘玲於奈の幸福の追求】
「え――」
僕の思考が、そのあまりの衝撃に一瞬で停止した。




