第65話:天ノ川美鈴の秘密の研究
あの非合理的な夜から数日が経った。
最近の僕はどうにも変だった。授業を受けている時や家事をしている時でも常に美鈴のことが頭に浮かぶ。
美鈴の冷たい横顔。美鈴の笑顔。あの綺麗な銀髪。
今日の夕飯は何を作れば喜んでくれるだろうか。
今度はいつ彼女とデートできるだろうか。
頭はぼうっとしているのに気だけが急いているような不思議な感覚だ。
この間などは気がそぞろになりすぎて料理中に危うく包丁で指を切りそうになった。こんなことはこのタワーマンションで家政夫として働くようになってから初めてのことだった。
もはや自分でも認めざるを得ない。僕は、今までにないほど美鈴に恋をしているのだ。
その一方で美鈴も、近頃はいつにも増して奇妙な行動をとっていた。
次世代エネルギーや最先端AIの研究をしたり国際学会向けの論文を執筆したりしている時の彼女は、寝食を忘れてディスプレイに向かうのが常だ。しかし、今の彼女は少し様子が違う。
「……うーん。この文言のリーガルな解釈だと、玲於奈に拒否権が発生する可能性がコンマ数パーセント残るわね。修正が必要だわ」
自室のデスクで、美鈴は凄まじい速度でキーボードを叩きながら、何やらぶつぶつと独り言を呟いている。
時折、ふと作業を止めては、真っ赤になった顔を両手で覆って何やら悶絶しているのだ。
「美鈴さん、息抜きにハーブティーを淹れたよ。それと、小腹が空いたかと思ってサンドイッチを作ってきたんだけど」
ドアをノックし、トレイを持って部屋に入ると、美鈴は聞いたこともない奇声を上げてノートPCをバタンと閉じた。さらに、机の上の資料を体全体で覆い隠すようにして、不自然なほど目を泳がせる。
「れ、玲於奈。侵入前の事前シグナルから入室までのインターバルが短すぎるわ。完全に予測の範囲外よ!」
「いや、ちゃんとノックしてから何秒か待ったよ? 一体何を書いてたんですか?」
僕が何気なく画面を覗き込もうとすると、美鈴は顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げ、全力で首を横に振った。
「見ちゃダメ。これは、世界を揺るがしかねない未発表の極秘プロジェクト。トップシークレットよ。 現在の君のアクセス権限では完全非公開だわ。成果物が完成するまで、一切の観測を禁ずる!」
「そ、そっか……。分かったよ。じゃあ、これ置いておくから、無理しないようにね」
僕は苦笑しながらトレイを置き、部屋を後にした。
「世界を揺るがす極秘プロジェクトか……。やっぱり美鈴さんは遠い世界の天才なんだな」
そんな風に少しの畏敬の念を抱きながら。
――しかし、かの『世界の天才』も、学校に一歩足を踏み入れれば、その振る舞いはただの『僕を溺愛する美少女』と化していた。
そのせいもあって現在の学園内における僕たちの地位は、誰も邪魔できない不動のカップルとして定着してしまっている。
休み時間。クラスの女子が僕の席に寄ってきた。
「高丘くん。今度の球技大会なんだけど――」
その声に応じるように顔を上げる。美鈴のことを思うと女子と二人きりで話すのは申し訳ないし、ここはなんとか必要最低限の会話だけして打ち切りたい。そんな風に考えていた時だった。
「ライフマネージャーの就業時間外における他個体のリソース占有は、我が家の生存戦略に対する明確な機会損失よ」
どこからともなく『学園の氷姫』こと天ノ川美鈴が音もなく背後に現れた。
「ひっ!? す、すみません……!」
美鈴の絶対零度の視線を浴びた女子生徒は一瞬で退散していく。
近くの席でその様子を見ていた渡辺が大きく溜息をついた。
「美鈴、それ止めなって。今のはクラスの業務連絡だから。そこまで威嚇しないの。高丘くんも美鈴を甘やかしすぎ」
「威嚇ではないわ、小幸。これは正当な防衛行動よ」
美鈴は当然のように僕の制服の袖をギュッと掴み、自分の隣に固定する。僕は苦笑しながらも内心では満更でもない気がしていた。
「まあ、恋人同士だし……甘やかすのは当然というか……」
渡辺はそんな僕たちに生温かい視線を向ける。
「高丘くんの問題が解決したっぽいのは良かったけどさぁ、あんたらいつの間にそんなバカップルになったの……。もういっそ籍でも入れちゃえば?」
「籍を入れる?」
「結婚したら、って言ってるの」
渡辺がからかうように笑って言う。その瞬間、美鈴の頬が朱に染まった。
「なっ……! け、結婚……っ。小幸。君ともあろう者がそんな低次元な通俗概念で私たちを定義するなんて。私たちはもっと高次で合理的な――」
真っ赤になって慌てる美鈴を落ち着かせようと思い、僕はその頭を優しくポンポンと撫でた。
「そうだね、美鈴さん。いつも僕の傍にいてくれてありがとう」
「あぅ……っ」
その行為は全く真逆の効果をもたらした。美鈴は、脳内CPUが処理落ちを起こしたかのように、小さく呻きながら僕の胸元に突っ伏した。慌てて彼女を抱き留める。
そんな光景を見た渡辺は呆れながらツッコんだ。
「はいはい、君たちそういうのは家でやってね」
僕と美鈴の距離感に対して渡辺がツッコんだり、からかってきたりする。そんなやり取りが、僕たちの最近の日常だった。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る直前、渡辺がまた何やら思い出したように言う。
「そうだ。高丘くん、これ」
渡辺が小さな包みを差し出してきた。綺麗なケースに入ったボールペンだ。見るからに質が良さそうである。
「渡辺さん、何これ?」
「美鈴にデートの予行練習であちこち連れ回された時に買ったの。高丘くんには前に色々と迷惑かけたからそのお詫び。美鈴、これは浮気じゃないからね~?」
彼女はそう言って美鈴に小さく手を振り、無害さをアピールしている。渋い顔で頷く美鈴。
「そういうことならありがたく受け取っておくけど……でも、なんでボールペン?」
「高丘くんって見た感じあんまり筆記用具にお金かけてないでしょ。一本くらいは良いペン持っておいたら? 書類を書く時とかに使うだろうし」
図星ではある。貧乏生活を送っていた頃の名残りで学校で使う筆記用具はなるべく安いものを揃え、一つのものがボロボロになるまで使い続けていた。
しかし、だからといってこんな洒落た文房具をもらっても使い道があるとは到底思えない。
「僕もまだ高校生だよ。そんなちゃんとした書類を書く機会なんてあるかなぁ」
「あるじゃん。ほら、婚姻届」
その途端、美鈴が顔を上げ、頬を真っ赤に染めたまま彼女を睨んだ。
「小幸!!」
「はいはい。そろそろチャイムが鳴るから美鈴は自分のクラスに帰りな」
渡辺が美鈴の細い肩を掴み、教室の入り口へと押していく。
彼女が毎日のように美鈴をからかって遊んでいるのを見て、周囲の生徒たちは徐々に美鈴に対して親しみやすさを感じ始めているようだった。
今までは『氷姫』などと呼ばれて学校中の生徒たちから一目置かれていたが、近頃はクラスの生徒からもたまに話しかけられるようになってきたらしい。
渡辺は、美鈴が他の生徒たちと打ち解けられるようにと計算尽くでこんな言動をしているのだろうか。だとしたら彼女はとんでもない策士だ。
渡辺から受け取ったボールペンの包みを眺める。綺麗な水色をしたお洒落なペンだ。
日本の法律では男女が結婚できる年齢は十八歳。とはいえ僕と美鈴が高校三年生になって十八歳の誕生日を迎えたからといって、いきなり籍を入れるなどと言い出したら秘書の春崎にどんな小言を言われるか分かったものではない。
どんなに早くとも高校を卒業してからにするべきだろう。
渡辺は冗談半分で「婚姻届を書くのに使って」などと言っていたが、こいつの出番があるとしても今から何年も先になりそうだ。
――その日の夜。
タワーマンションのリビングで、僕が明日の献立の栄養価を計算していると、背後からプリンターの駆動音が聞こえてきた。
静かな室内に紙が吐き出される音が響く。
「……よし。最終シミュレーション、全て完了。エラーはゼロよ」
部屋から出てきた美鈴が、プリンターから出力された数枚の紙を愛おしそうに整え、ホチキスでパチン、と丁寧に留めた。
美鈴はその紙の束を胸に抱きしめるようにして、ゆっくりと僕の前に歩み寄ってきた。
彼女の顔は、かつてないほど真剣だが、微かに紅潮しているようだ。
「玲於奈。ついに、私の極秘プロジェクトが完成したわ」
「え……?」
彼女から突きつけられたのは上質なA4用紙で作成された書類の束。
その表紙に目を落とした瞬間、心臓がドクンと跳ねた。そこに印字されていたのは、新しい研究の論文でも、特許の申請書でもない。
かつて一文無しだった僕が、生きるためにサインをした、あの書類と酷似したフォーマットだ。しかし、タイトルだけが決定的に書き換わっていた。
『合理的生存維持、および永続的幸福追求に関する新業務委託契約書』
僕の目の前に、新しくも、どこか見覚えのある契約書の束が提示された。
「内容について詳しく説明するわ。来なさい」
彼女はどこか緊張した面持ちで僕にベランダに出るよう促したのだった。




