第62話:合理的ではない、最高の休日(前編)
デート当日の朝。
「待たせたわね。本日のフィールドワーク用衣装の調整に、想定以上の演算時間を費やしてしまったわ」
タワーマンションの玄関に現れた美鈴の姿を見て、僕は持っていたスマートフォンを落としそうになった。
いつもはぶかぶかの白衣か学校の制服姿しか見せない美鈴が、今日はまったく違っていた。
淡いパステルカラーのサマーニットに、風にふわりと揺れるシフォンスカート。いつもは無造作に爆発させている黒髪は綺麗に整えられ、ハーフアップにまとめられている。ほんのりと色づいた唇が、初秋の陽光にきらめいていた。
「どうかしら。小幸に『一般的な男子高校生の心拍数を20%上昇させるコーディネート』を要求して用意させたのだけど……効果は出ている?」
「渡辺さんのコーディネートなんだ、これ。効果が出てるどころじゃないですよ……。すごく、可愛いです」
僕が正直な感想を伝えると、美鈴は息を詰め、すぐに顔を背けた。
白い頬がみるみるうちに赤く染まっていく。どうやら、褒められることへの耐性はまだ付いていないらしい。
「こ、個別評価は不要よ。さあ、出発するわ。いつもは君に生活基盤を依存しているけれど、今日の『デート』に関しては、私が全ての行動プランを最適化したわ。君はただ、私のエスコートに従いなさい」
美鈴は小さな手で「ついてきなさい」とジェスチャーをした。
数百億円の資産を持つ天才科学者のエスコート、と聞いて、僕は少し身構えていた。高級外車で乗り付け、会員制のフレンチレストランや、貸し切りの研究施設にでも連れて行かれるのではないか、と。
だが、美鈴がスマートフォンのナビを頼りに僕を連れてきたのは、都心部の外れにあるごく普通の総合アミューズメント施設だった。巨大なシネマコンプレックスと、どこかレトロな雰囲気を残す街の遊園地が併設された、休日は家族連れやカップルで賑わう庶民的な場所だ。
「ここって……」
周囲を見渡し、ハッと気づいた。以前、テレビのニュース番組でアミューズメント施設の特集が流れていた時、美鈴と他愛のない会話をしていた。映画館も遊園地も両親に連れていってもらったことのない僕は、テレビを見ながら何気なくその話をしたのだ。
「気づいたようね」
美鈴は少し誇らしげに、しかし照れ臭さを隠すようにタブレット端末の画面をトントンと叩いた。
「君の過去の音声ログを解析した結果、こういった座標への関心度が極めて高いことが判明したわ。私からすれば、非効率で商業主義的な場所だけど……今日の目的は、君の幸福指数の最大化。だから、これでいいのよ」
「美鈴さん……僕が言ったこと、覚えててくれたんだ」
「当然よ。私が君に関するデータを忘れるわけがないわ」
美鈴は胸を張り、まずは映画館へと僕を引っ張っていった。
ポップコーンの香ばしい香りが漂うロビーで、美鈴が事前に予約していたチケットを発券する。彼女が好みそうな難解なSF映画か哲学的な映画なのかと思いきや、まさかの王道の恋愛映画だった。
上映中、暗闇の中で、僕は隣の席の美鈴に視線を向ける。
美鈴はポップコーンを口に運びながら、スクリーンを真剣に見つめていた。コミカルなシーンでわずかに口角を上げたり、恋人たちの別れのシーンで瞳を潤ませたりしている。いつも研究中に見せる冷徹な表情はどこにもなく、そこには等身大の、恋人と映画を楽しんでいる一人の少女がいた。
映画が終わると、僕たちはそのまま隣接する遊園地へと移動した。
休日とあって、園内は多くの人でごった返している。カラフルな風船、楽しげなBGM、ポップコーンやチュロスの甘い匂いが空間を満たしていた。
「……人が多いわね。熱力学的な密集度が、私の予測値を超えているわ」
美鈴は少し気圧されたように、周囲を見回した。人とのコミュニケーションを嫌う彼女にとって、この人混みはそれだけで大きなストレスのはずだ。それでも、彼女は毅然とした態度を崩そうとしない。
だが、前方から歩いてきた賑やかな学生の集団に押し流されそうになり、美鈴の小さな身体がふらりとよろめいた。
「あ、危ない――」
僕が手を伸ばそうとした、その瞬間。ギュッ、と。僕の右手に、温かくて小さな熱が飛び込んできた。
見ると、美鈴が自分の指を、僕の指の隙間に滑り込ませるようにして、強く、強くその手を握りしめていた。
二人の肌が密着し、お互いの体温が直に伝わってくる。いわゆる、恋人繋ぎだ。
「美鈴さん……?」
僕が驚いて声をかけると、美鈴は正面を向いたまま、耳まで真っ赤にして歩く速度を速めた。その小さな手が、拒絶を許さないようにさらに強く握られる。
「……他個体との接触による、位置エネルギーの損失を防ぐための措置よ。この繋ぎ方をする必要性に関しては――」
美鈴は一瞬言葉を詰まらせ、それから意を決したように、僕の方へときゅっと顔を向けた。潤んだ銀色の瞳が、まっすぐに僕を見つめる。
「これは、迷子防止のロジックではないわ。ただ……私が、君とこうしたいからよ。文句ある?」
理屈をこねるのを諦めた、あまりにも素直な独占欲の表明。
繋がれた手から伝わる心拍数は、間違いなく僕たちの脳内CPUを同時にオーバーヒートさせていた。




