第63話:合理的ではない、最高の休日(後編)
夕暮れ時、遊園地全体が茜色の光に包まれていた。手を繋いだまま、僕と美鈴は今日の最終目的地へと向かう。
見上げるほどに巨大な観覧車。そのゴンドラが夕日を反射して、まるで琥珀色の結晶のようにきらめいていた。
「デートの締めくくりにおける観覧車の選択は、統計学的にカップルの親密度をさらに数パーセント引き上げる効果があるとされているわ」
美鈴は案内されたゴンドラに乗り込みながら、やはりいつも通りの『理屈』を口にする。
ガタリ、と微かな振動と共にゴンドラが地上を離れた。
ゆっくりと上昇していく四角い空間。中には、僕と美鈴の二人きりだ。
窓の外には、夕日に染まる街並みが一望でき、遠くには僕たちの住むタワーマンションが針のように小さく見えていた。
美鈴は窓の外をじっと見つめていた。地上から距離が離れるにつれて、ゴンドラ内の静寂が急に色濃くなっていく。
賑やかな園内の喧騒が遠ざかり、聞こえるのは観覧車の駆動音と、心なしかいつもより速い二人の呼吸音だけだ。
美鈴は膝の上でぎゅっと拳を握りしめていた。
サマーニットの裾から覗く指先が、夕暮れの光の中で微かに震えている。
「……玲於奈」
不意に、美鈴が窓ガラスから視線を外し、対面に座る僕の方を向いた。
茜色の光が彼女の横顔を照らし、ハーフアップに結ばれた銀髪の輪郭を優しく縁取っている。その銀色の瞳には、いつもの冷徹な計算式ではなく、どこか心細そうな、けれど真っ直ぐな感情が揺らめいていた。
「ど、どうしたの、美鈴さん」
「本日のフィールドワーク……その、私のエスコートプランについての評価を、フィードバックしてほしいの」
美鈴はきゅっと唇を結び、それから、本当に小さな、消え入りそうな声で付け加えた。
「……楽しかった?」
科学的なデータとしての問いかけ。けれど、その声には「もし失敗していたらどうしよう」という、彼女なりの不安が痛いほどに詰まっていた。
1000億を稼ぎ出す天才科学者が、僕という一人の人間の機嫌一つに、これほどまでに心を揺らしている。
胸の奥が、熱い想いで満たされていく。
両親に捨てられ、水道水で空腹を紛らわしていたあのどん底の公園から、美鈴に拾われて始まったこの生活。
魔窟のようだった部屋を掃除し、完璧な塩分濃度の食事を作り、理屈っぽい彼女に振り回されながら、いつの間にか僕の凍りついていた心は完全に溶かされていた。
僕は少しだけ身を乗り出し、美鈴の小さな手をそっと包み込んだ。
「楽しかったなんてレベルじゃないよ。映画も、遊園地も、美鈴さんが僕のために選んでくれたこと、全部が嬉しかった」
「玲於奈……」
「僕、今、すごく幸せだよ。美鈴さんと出会えて……一緒にいられて、最高の人生だ」
最高の人生――それは、毎日ただ生きているだけで精一杯だったかつての僕の口からは、絶対に出るはずのなかった言葉だった。
僕の真っ直ぐな言葉を受け止めた美鈴は、一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして次の瞬間。
「……っ、ふふ」
美鈴の口元から、小さく、本当に嬉しそうな笑みが溢れ出した。
いつもの不敵な笑みでも、慌てふためいて強がった顔でもない。
ただ純粋に、大好きな人に想いが通じた少女の、柔らかくて、世界中のどんな数式よりも美しい本物の微笑みだった。
「……そう。それなら、私の最適化は、正しかったということね」
美鈴は嬉しそうに目を細めると、繋いだ手を引き絞るようにして、僕の隣の席へと移動してきた。
密着する二人の体温。夕日の光が、ゴンドラの影を長く伸ばしていく。
ゴンドラはやがて一番高い地点へと到達した。街を一望する大パノラマの中で、時間が止まったかのような錯覚に陥る。
「玲於奈、こちらを向いて」
美鈴の小さな声に促され、僕が横を向いた瞬間。ふわり、と甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
美鈴がシートの上で少しだけ背伸びをして、僕の顔に近づいてくる。
次の瞬間、僕の右の頬に、驚くほど柔らかくて、温かい感触が押し当てられた。
「あ……」
チュ、と小さな、けれど明確な水音がゴンドラ内に響く。
一気に鼓動が高鳴った。
美鈴の柔らかい唇が僕の頬に触れていたのは、わずか一秒足らず。
すぐに身を引いた美鈴は、顔から火が出るのではないかというほど真っ赤になりながら、それでも不敵な笑みを浮かべようと必死に口角を上げていた。
「……っ、これは、最高到達点における心理的興奮、俗に言う『吊り橋効果』を物理的に検証するための、実証実験よ」
美鈴は乱れた前髪を震える指先で整えながら、勝ち誇ったように、けれど吐息を漏らしながら僕を睨んだ。
「……これ以上の、過度な特異的スキンシップは……公共の場では非合理的よ。……マンションに帰宅した後の、お楽しみにしておきなさい」
「こ、これ以上って――」
心臓が爆発しそうだった。舌が上手く回らない。彼女は、そんな僕を見つめたままどこか甘えるような艶やかな笑みを浮かべてみせる。
「……聞かないでよ。私に口にさせるつもり?」
夕暮れの密室で、天才科学者は、自ら仕掛けた実験の熱に完全に浮かされていた。




