61話:天才科学者は初めて「恋人の定義」を検索する
朝の光が、遮光カーテンの隙間から滑り込んできていた。パチリ、といつも通りの時間に目が覚める。
僕はベッドの上で上体を起こし、ゆっくりと深呼吸をした。
「……あ」
胸の奥が、驚くほど軽い。ここ数日、目覚めた瞬間に心のどこかをチクリと刺していた、あの重苦しい鉛のような塊が、綺麗さっぱり消え去っていた。
昨日までの出来事が、まるで嘘のようだ。
僕を縛り付け、何もかもを毟り取ろうとしていた過去は、美鈴の手によって完璧にデバッグされた。もう二度と、僕たちの聖域にあの悪意が侵入することはない。美鈴がその圧倒的な知力と財力で、僕たちの未来を完全に保証してくれたのだから。
「朝ご飯、作らなきゃな」
自然と口元が緩むのを自覚しながら、僕はベッドから抜け出した。
リビングに向かうと、相変わらずサーバーラックは静かに駆動音を立てており、床はホテルのように磨き上げられている。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。こんなにも落ち着いた気持ちで朝食のメニューを考えるのも久しぶりだ。それだけでなんだか心が弾む。
頭の中でメニューを決めるとすぐに動き出した。
鍋で丁寧に鶏ガラのアクを取り、極細切りにした人参と玉ねぎを透き通るまで煮込む。
並行してもう一つのコンロに火をつけ、完璧な温度管理でフライパンを温める。バターが溶けるかすかな音。卵液を流し込み、箸を高速で動かして空気を含ませる。手首をトントンと小刻みに叩けば、表面がシルクのように滑らかな、美しいラグビーボール型のプレーンオムレツが完成した。
ちょうどよくオーブントースターではクロワッサンがこんがりと焼き上がったところだった。美鈴のお気に入りのパン屋で買ったものだ。
最後にスープの仕上げとしてほんの少しの隠し味を加え、温度を調整するとスープ皿に注ぐ。キッチンにふんわりと優しい、香ばしい香りが広がった。
タイミングを見計らったかのように、リビングの奥からよたよたとした足取りで美鈴が現れた。
「ん……うにゅ……」
起きたばかりの彼女は、大きめのシャツの袖から指先だけを出し、綺麗な銀色の髪を寝癖で少し跳ねさせている。相変わらず、世界を揺るがす天才科学者には到底見えないだらしなさだ。
「……玲於奈。熱力学第二法則に従って、私の部屋の温度と君のスープの香りが対流を起こしているわ。つまり……お腹空いた」
「おはよう、美鈴さん。ちょうど今できたところだよ。席に座って」
「ええ。脳の糖分が枯渇して、危うくシステムダウンするところだったわ」
美鈴はトボトボと椅子に座ると、テーブルに並べられたスープと焼き立てのクロワッサン、そしてプレーンオムレツをまじまじと見つめた。
その端正な横顔は、いつも通り冷徹で無表情。昨日、僕のためにあんなに感情を爆発させて怒ってくれたことなど、まるでなかったかのような、いつもの『学園の氷姫』の顔だった。
だが、美鈴がスープをスプーンですくい、ゆっくりと口に運んだ瞬間。
「ッ……」
ピク、と美鈴の細い眉が跳ねた。 彼女は無言のまま、二口、三口とスープを口に運ぶ。そのスピードが、いつもより明らかに速い。
「どうかな。……お口に合います?」
僕が尋ねると、美鈴はスプーンを止め、いつも通りの淡々としたトーンで語り始めた。
「……驚異的な最適化ね。野菜の甘みとアミノ酸の相乗効果が、昨日までのストレスで疲弊した私の自律神経を直接修復しているような感覚よ。塩分濃度も完璧。……相変わらず、恐ろしいリソースね、君は」
無表情のまま、早口でロジックをまくしたてる美鈴。それを聞いているとかけがえのない日常が戻ってきたことが改めて実感できた。胸の奥から愛おしさが溢れて止まらなくなる。
朝食を終えると、僕は食卓の向かい側に座り、まっすぐに美鈴の瞳を見つめた。
「美鈴さん。昨日は本当にありがとうございました。僕のために何から何まで……」
「私は、自分の最重要資産を守っただけよ。お礼を言う必要は一ミクロンもないわ。君は今まで通りライフマネージャーとして完璧に家事をこなしてくれればそれでいい」
「はい、今まで以上に頑張りますね。家事以外でも何か僕にできることがあったら遠慮なく言ってください。なんでもしますから!」
「なんでもしてくれるの? そうね。それじゃあ――」
美鈴はそう言うと悪戯っぽく微笑む。
「キスしてくれる?」
「……っ」
思わず息を吞む。わずかな葛藤。こういう時、僕はいつも照れ臭さから一歩引いた態度を取っていた。
だが、昨日、彼女はあらゆるリソースを駆使して僕を救い、僕のために怒り、僕を家族とまで呼んでくれた。
だったら、僕もいつまでもそんな遠慮がちな姿勢のままでいるわけにはいかないだろう。これからは彼女の思いにはできるだけ応えてあげたい。
僕は、意を決して椅子から立ち上がる。
「……分かりました」
「えっ?」
彼女のそばに歩み寄り、少し身を屈める。相変わらず心臓は早鐘のように高鳴っていた。この緊張感にはいつまで経っても慣れそうにない。
彼女の綺麗に整った顔が。その白い肌が。すぐ目の前にある。
「……キス、しますね」
美鈴の瞳が、みるみるうちに大きく見開かれていく。
「玲於奈。ほ、本当に……?」
彼女の耳の裏が、ほんのりと桜色に染まっていた。
「だ、だって、美鈴さんがしてって……」
「それは……そうなのだけど……いったいどういう仕様変更なの……? 普段の君ならこんな時……」
美鈴は上目遣いで、真っ赤な顔のまま、必死に言葉を紡ぐ。
「美鈴さんがあんなに僕のために一生懸命になってくれたんですから。僕だって美鈴さんの気持ちには報いたいんですよ」
「それは……嬉しいけれど……」
美鈴はあからさまに挙動不審になり、視線を泳がせたり指先で髪を触ったりしている。
「分かったわ。待ってちょうだい。目をつむるから」
居ずまいを正すと静かに目をつむる美鈴。
「どうぞ」
どうぞ、などと言われても困る。本当に困る。
そっと閉じられた瞼。長い睫毛。色素の薄い肌。形の整った小さくて瑞々しい唇。
改めて目の前で見ると、なんて綺麗な人なのだろうと思う。
緊張でどうにかなってしまいそうだった。だが、ここで逃げ出すわけにはいかない。覚悟を決め、ゆっくりと身を寄せる。僕と彼女の距離が少しずつ近づく。
ほんの一瞬。唇が触れた。柔らかくて少し濡れた感触。
弾かれるように顔を離すと、慌てて視線を背けた。遠慮がちに彼女の様子を窺う。
瞳を開いた美鈴は口元を手で隠すようにしながら顔を真っ赤にしていた。
「あの……」
「ええ……」
甘酸っぱいギクシャクとした空気が僕たちの間に漂う。
僕は思わず顔が熱くなり、誤魔化すようにキッチンへと足を向けた。
「僕、洗い物してきますね……!」
「――玲於奈」
美鈴の凛とした声が響き、僕は足を止める。
「愛してるわ」
彼女は心の底から幸福そうに微笑むと、嚙み締めるようにして言った。
「僕も愛してますよ、美鈴さん」
照れながらもそう返すと、そのままキッチンに向かったのだった。
***
その日の夜。夕食の片付けを終えた僕がリビングに戻ると、ソファの定位置に座った美鈴が、いつも以上の厳めしい表情で愛用の高機能タブレット端末を睨みつけていた。
「……深刻なエラーだわ」
眉間に深い皺を刻み、画面をスクロールする指先は心なしか強張っている。世界を揺るがす次世代エネルギーの方程式を解いている時でさえ、ここまで追い詰められたような顔はしない。
「どうしたの、美鈴さん。研究で行き詰まった? 新しい数式のエラー?」
僕は心配になって声をかけ、ハーブティーを注いだカップを彼女の前に置いた。
美鈴はハッと顔を上げると、真っ赤になった耳を隠すように不自然に髪をかき上げ、タブレットを胸元に抱え込んだ。
「学術的な研究ではないわ。……いえ、ある意味では人類の歴史における最古にして最大の難問に関するリサーチよ。非常に主観的で、再現性が低く、論理的な最適解が見出せない未知の領域だわ」
「最大の難問……?」
僕は首を傾げ、美鈴の横に腰掛けた。
今朝、唇を重ね合った時から、僕たちの間の空気はどこか甘く、そしてほんの少しだけ気恥ずかしいものに変化していた。美鈴がソファの上で距離を詰めてくるだけで、僕の心臓が過剰に跳ねてしまう。
「美鈴さん、その難問って……?」
「っ……見たいなら、見てもいいわ。ただし、私の知的好奇心に対する批判は却下する」
美鈴はおずおずとタブレットの画面を僕の方へと向けた。
そこに表示されていたのは、高度な数式でも、特許の申請書でもなかった。
『恋人 定義 違い』
『付き合うとは 具体的に何をすればいい』
『一般的な恋愛関係における行動プロトコルの標準化』
『デート 頻度 現代高校生の平均値』
検索エンジンの履歴に並ぶ、およそ天才科学者には似合わない俗っぽいワードの数々。さらに画面に開かれているのは、どこかの大学の心理学部が発表した『対人心理学における親密行動の段階的考察』という小難しい論文だった。
「……美鈴さん、これって」
僕が目を丸くすると、美鈴はタブレットの陰から上目遣いで睨んできた。
「仕方ないでしょう。私は十代で数々の特許を取得し、数式と物理法則、AIの予測モデルだけを信じて今まで生きてきたのよ。対人コミュニケーション能力は皆無。そんな私に初めて愛する人ができたの」
美鈴は一気にまくしたて、クッションに顔を埋めた。
「現在の私たちは、単なる『雇い主と家政夫』という契約関係を超越し、一般的な『恋人関係』、あるいは『家族の初期段階』にステータスが移行したと推測されるわ。でも、私にはその関係性において、どのような行動を出力するのが正しいのかが分からないのよ」
「だからって、ネットで検索したり論文を読んだりしなくても……」
僕は思わず吹き出してしまった。
あまりにも美鈴らしい。不器用で、真面目で、効率主義の塊の彼女が、「僕の恋人として正しくありたい」と必死にデータを集めているのだ。愛おしさで胸の奥が締め付けられるようだった。
「笑わないで。私は真剣よ」
美鈴はクッションから顔を出すと、真顔に戻って言った。
「論文によると、関係性のアップデートには『共同行動による記憶の共有』と『非日常空間におけるオキシトシンの分泌促進』が不可欠であると結論付けられているわ。つまり、室内での定時メンテナンスだけでは、今後の持続的な幸福度の維持には不十分だということよ」
タブレット端末の画面をスワイプし、美鈴は僕の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、未知の実験に挑む科学者のような強い意志と、少女特有の微かな緊張が宿っている。
「玲於奈、次の休日は『デート』という名のフィールドワークを行うわ。目的は、私たちの幸福指数の上昇よ。異論は認めないわ」




