第60話:聖域の静寂、あるいは切れた緊張の糸
高級ホテルの喧騒と、あの醜悪な罵声が遠ざかっていく。
専用のエレベーターが静かに上昇し、電子音が到着を告げた。電子ロックが解錠され、見慣れた重厚な扉を開けると、そこにはいつもと変わらない、静謐で洗練された空間が広がっていた。僕たちの、タワーマンションの最上階だ。
「先生、高丘くん。私はこれからオフィスへ戻り、事後処理をします。今日はこれで失礼しますね」
玄関ホールで、春崎が眼鏡の位置を直しながら、どこか安堵したような、それでいて深い気遣いのこもった笑みを浮かべた。
「ええ。お疲れ様、春崎。残りの処理も完璧にお願いね」
美鈴は彼女を見上げ、静かに微笑む。
「春崎、今度一緒に食事でもどうかしら。君と、私と玲於奈と三人で」
春崎の眼鏡の奥の瞳が驚きで見開かれる。
「……よろしいのですか、先生。私がお二人とご一緒しても」
「もちろんよ。ね、玲於奈?」
僕も力強く頷いた。
「はい。春崎さんが来てくれるなら僕も腕によりをかけて料理を作りますね!」
「先生のもとで働くようになってからまさかこんな日が来るとは思ってもみませんでした……。お食事会、楽しみにしています」
春崎は震える声でそう言うと、深々と一礼した。彼女が去り、パタンとドアが閉まる。広いリビングに残されたのは、僕と美鈴の二人だけになった。
「春崎さんにもお世話になりっぱなしですね」
「ええ、そうね。彼女、後見人になってからずっと私のために一生懸命に働いてくれて……。最近はなんだかあの人が姉代わりのように思えてきているわ」
「本人に言ってあげればいいじゃないですか。きっと喜びますよ」
「……言えないわ、そんなこと」
恥ずかしそうに頬を染める美鈴。今度一緒に食事をする時にさりげなく彼女をフォローしてあげてもいいかもしれない。
そんな風にやり取りをしながらリビングへと足を踏み入れる。床には塵一つ落ちておらず、空気清浄機がかすかな駆動音を立てているだけ。窓の外には、いつもと変わらない美しい夜景が静かに広がっている。非の打ち所がない、完璧に浄化された僕たちの『聖域』だ。
「美鈴さん、少し休んだらお茶でも淹れますね」
リビングの大きなソファにどさりと身体を預けた、その瞬間だった。プツリ、と。この数日間、脳の奥で限界まで張り詰めていた見えない糸が、音を立てて切れた。
「あ、あれ。おかしいな……」
膝の上に置いた自分の両手を見た。
止めようとしても、指先がガタガタと激しく震えている。それだけではない。背中からどっと冷や汗が吹き出し、心臓が今更になって、壊れた鐘のようにドクドクと不規則に暴れ始めた。
自分がどれほど、あの過去の呪縛に怯えていたのか。
数日前に電話口で怒鳴りつけられた瞬間から、僕の頭は、美鈴の世界を汚してしまうかもしれないという恐怖と、あの地獄のような極貧生活に逆戻りするかもしれないという絶望で、完全にパニックに陥っていたのだ。
それを、美鈴が、その圧倒的な知力と財力のアルゴリズムによって、一瞬で粉砕してくれた。
もう、あの暗闇に怯える必要はない。奴らは二度と僕の前に現れない。その事実が、脳が処理しきれないほどの圧倒的な安堵となって、一気に全身に押し寄せてきた。
「……本当に、終わったんだ」
いつも完璧に家事をこなし、美鈴の生活をマネジメントし、どんな時も平気なフリをしていた僕の仮面が、内側からボロボロと崩れ落ちていく。安全な『我が家』に帰ってきたからこそ、張り巡らせていた防衛本能が緩み、隠していた脆弱さが全て溢れ出してしまった。
視界が、急激に歪む。
「あ……」
止められなかった。
熱い塊が胸の奥からせり上がり、目元からボロボロと、大粒の涙が溢れ出した。一度決壊した感情は、どんなに制御しようとしても言うことを聞かない。僕は両手で顔を覆い、子供のように声を押し殺して、ガタガタと肩を震わせた。
情けない。不甲斐ない。
美鈴の前で、こんな無様な姿を見せるなんて。
その時、フローリングを優雅に踏みしめる足音が、僕のすぐ近くで止まった。
美鈴は、泣きじゃくる僕の姿をじっと見つめていた。
彼女は、身に纏っていた漆黒の特注オーダーメイドスーツの上着を、無造作にソファへ脱ぎ捨てた。白いYシャツ姿になった美鈴は、見たこともないほど真剣で、どこか硬い表情のまま、僕の目の前へとゆっくりと近づいてきた。
「……玲於奈」
「美鈴、さん……。ごめん、なんか、急に力が抜けちゃって。情けないですよね、せっかく美鈴さんが完璧にやってくれたのに……」
「謝罪の必要は一ミクロンもないわ」
美鈴の声は、いつになく低く、そして信じられないほど柔らかかった。
彼女はそのまま、躊躇うことなく僕の頭を自分の胸元へと引き寄せ、ぎゅっと強く、抱きしめてきた。柔らかな胸の感触が伝わってくる。
「え――」
「……よく頑張ったわね、玲於奈」
ふわりと、彼女のYシャツからいつもの甘い香りが広がる。それは、今までの強がりや科学的な言い訳を全て削ぎ落とした、包容力に満ちた優しいハグだった。
「私の誇るライフマネージャーが、あんな粗悪なエラーデータ相手に、今日までどれほどの精神的リソースを消費して耐え続けてきたか。……私の演算能力なら、言われずとも全て理解できるわ。君は十分に戦った。そして、私の隣にいることを選択してくれた。これ以上の最適解は存在しないわ」
美鈴の細い指先が、僕の背中を優しく、何度も何度もさする。トントン、と心地よい一定のリズム。それはまるで、乱れた僕の心拍を、彼女自身の体温を使って正常な数値へと同期させていくかのようだった。
「もう何も怖がる必要はないのよ。何かあっても、私が君を永遠に守り続けてあげる。だから……これからは、いつも通りに私に毎日美味しいご飯を作ってちょうだい」
「あ……」
その言葉が、僕の胸の奥の、一番深い場所に届いた瞬間。堰を切ったように、熱いものが目頭から溢れ出た。
「っ、う……、ああ……!」
僕は美鈴のYシャツの胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
両親に認められなかった辛さではない。ただ、もう怯えなくていいのだという圧倒的な安堵と、こんな僕を『最重要資産』だと、丸ごと全肯定して癒やしてくれる彼女の温もりが、嬉しくて、ありがたくて、たまらなかった。
美鈴は何も言わず、僕が涙を流し尽くすまで、ただ静かに抱きしめ続けてくれた。
窓の外の夜景は優しく明滅している。静まり返ったリビングには、二人の重なり合う温かい鼓動だけが、確かに響き渡っていた。
第3章「過去との決別編」完
最終章「新しい契約と未来編」に続く




